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2-3.余が言をあまくみるでない!

最初の追放令は脅しだった

さて、当然のことながらイエズス会は、突然とも思えるその追放令に強く反発しました。特にコエリョは、有馬晴信や小西行長などのキリシタン大名に「反秀吉連合」の結成を呼びかけ、武器や弾薬の提供を申し出ました。彼らはそれを拒否しています。それだけでなく、彼はスペイン国王やゴアのインド副王、フィリピン総督に対して援軍の派遣も要請しました。この軍事支援の要請は、コエリョの独断ではなく、在日イエズス会の有力神父の総意でもあったようです(出所:「戦国日本/平川」P88)。

結果からいいますと、この時の秀吉の追放令は、単に脅しであったといえます。「あんまり図に乗るな」といった意味合いでしょう。20日以内に立ち去れといわれたにもかかわらず、宣教師たちは一旦平戸に集まりましたが、結局は立ち去らずにやがてキリシタン大名たちに引き取られて各地に散っていきます。1591年の朝鮮への最初の派兵(文禄の役)で肥前名護屋(佐賀県唐津市)に出陣していた秀吉に宣教師が面会した記録も残っているほどです。秀吉にとってみれば、実際に彼らがいなくなると貿易が途絶してしまうため、それは避けたく、したがって、単なるしかし強烈な脅しをかけただけだったと思います。

ポルトガル、スペインへの強烈なメッセージ

一方で、秀吉は1591年にポルトガルのインド副王、スペインのフィリピン総督へも強烈なメッセージを送っています。特にフィリピン総督へ向けたそれは、「すみやかに使者を派遣して服従せよ。もし遅れれば、軍隊を派遣する(出所:「戦国日本/平川」P103)。」という激しいものでした。朝鮮半島を北上し、次は明、そして天竺(インド)だと意気が上がっている頃です。明を征服したら、お前のところは目と鼻の先だと脅しをかけたのです。フィリピン総督は、マニラに戒厳令を布き、スペイン国王へメキシコからの援軍派遣を要請したほどでした(出所:「戦国日本/平川」P103)。

フィリピン総督は、なんとか穏便に図ろうと使者を秀吉に送ります。スペイン系のドミニコ会士でした。その使者は1592年に肥前名護屋で秀吉に謁見しました。その理由は諸説ありますが、秀吉はその後、長崎の修道院と教会の破壊を命じます。イエズス会では、スペインからの使者が秀吉にポルトガルの悪口を言い立てたので、秀吉が怒って破壊を命じたと信じ込みました。スペイン側からみれば、日本での宣教並びに貿易をポルトガルが独占していたのが面白くなく、1585年に出された日本宣教をポルトガルに限るとした教皇勅令の撤回を求めてもいました。一方のポルトガルも、自らの縄張りである日本にスペインが割り込んできたのですから、警戒心をもちました。秀吉からすれば、それまで貿易の相手だったポルトガルの他に、新たにスペインという選択肢が増えたことになるので、ポルトガル並びにイエズス会への牽制だったといわれています(出所:「戦国日本/平川」P95)。

ポルトガル系のイエズス会といっても、中にはスペイン人、イタリア人とさまざまだった。イエズス会所属のスペイン人は当然スペインに肩入れしたし、同会といえども強固にまとまっていたとはいえない。ちなみにフランシスコ・ザビエルはスペイン人だった。

脅しが現実に

単なる脅しであったものが、現実となったのが1596年です。そのきっかけは、スペイン船「サン・フェリペ号」が暴風雨により土佐に漂着したことからはじまります。これに対し、ポルトガル人がスペイン人の悪巧み(フィリピンを征服したように日本も征服するつもりだ)を秀吉に告げた、あるいは、厳しく尋問された船員のひとりが、その仕打ちに対して「スペイン人をこんな目にあわすと、スペイン国王がだまってないぞ」という発言をしたからと、原因は諸説あります。秀吉は乗船していた司祭だけでなく、大阪や京都にいたスペイン系のフランシスコ会の宣教師たちを捕え、長崎で処刑してしまうのです。彼らが処刑されたのは1597年でした。

この事件後、それに抗議した書簡がフィリピン総督から秀吉に送られますが、それへの秀吉の返書は一層の怒りを表した激越なものでした。秀吉は薄々勘付いていた、彼らの日本征服という野望を確信したといえます。秀吉が死去するのは翌年、しかし、秀吉が死去した知らせが届いても、マニラのフィリピン総督は安心できませんでした。朝鮮半島を撤退してくる10万人の兵士が、次なる征服地としてマニラにやってくるかもしれないと怯えたからです。

続く

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