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2-2.蜜月関係から反目・追放へ

秀吉とイエズス会

信長の死後、日本統一の最有力者豊臣秀吉に、イエズス会が信長と同様の庇護を求めたのは当然でしょう。秀吉の関白就任直後の1586年に、イエズス会の日本における総責任者(准管区長)、ガスパル・コエリョが秀吉に謁見し、これまで同様に日本での宣教を許可されています。その際の会話を、通訳として臨席したフロイスが記録していますが、それによると、秀吉は明国征服の計画を語り、ポルトガルの大型帆船二隻の提供を依頼し、コエリョは承諾したらしいのです。また、コエリョからは、秀吉の九州平定を要請し、その際には九州のキリシタン大名を、すべて秀吉側に立たせるよう尽力すると秀吉に話し、さらには、明への出兵の際には、船の提供だけでなく、インド副王に要請して援軍を送らせようとも語ったらしい。その時秀吉は満足そうな様子をみせたとあります(出所:「戦国日本/平川」P70〜72)。

伴天連ばてれん追放令(1587)

しかし、翌年の1587年には伴天連追放令が発布されます。「伴天連」とはポルトガル語(スペイン語も同じ)の「パードレ」を表し、カトリックの司祭のことです。これは唐突とも思えるタイミングだったといわれています(出所:「キリスト教/石川」P80)。この発布のわずか9日前には、九州平定のために博多に在陣していた秀吉は、コエリョに対して博多の好きなところに教会を建ててもよいと話していました。

しかし、なぜそれが急変したのか、これはヴァリニャーノいわく、「コエリョの軽率な振る舞い」がその原因でした。コエリョは、秀吉に自慢げに大砲を積んだ軍船(フスタ船というもので、数門の大砲を積んだ手漕ぎの帆船)を見せたらしいのです。それも、長崎にあったものをわざわざ博多に回航させてです。これを使って、一緒に明を征服しましょう、これはその時にも使う船ですという心づもりだったと思いますが、この時、秀吉の側にいた小西行長と高山右近(ともにキリシタン大名)は、秀吉の反応をみて、コエリョにその船を献上するように勧めたほどでした。怒気を含んだ顔色になったのでしょう。秀吉は、軍船を長崎でつくらせることができるイエズス会の権勢に、怒りをいだいたと思います(出所:「戦国日本/平川」P76)。

日本人奴隷売買を禁止させた秀吉

しかし、この伴天連追放令は、のちの禁制に比べればかなり緩い内容でした。キリスト教の宣教を禁じ、宣教師は20日以内に立ち去れとはしたものの、貿易目的ならば来るのは構わないというもので、キリスト教の信仰自体も領主層の信仰のみを許可制とし、それ以外は特に制限もありませんでした。ただ、ここで述べられていることで特筆すべきは「日本人奴隷の売買禁止」です。宣教師は商人と一緒になって日本人を商取引の対象とし、奴隷交易許可状を発給していた(出所:「戦国日本/平川」P86)。)のです。

もちろん、ポルトガル人が来日する前から、奴隷の売買は日本人によっておこなわれていましたが、ポルトガル人の来航とともに、日本は世界的な奴隷市場に組み込まれたのです。前述した「天正遣欧少年使節」の記録には、彼らが寄港した先々(アジアや南欧)でみた日本人奴隷のことが書かれています。さらには「大航海時代の日本人奴隷/ルシオ・デ・ソウザ、岡美穂子」によれば、日本人奴隷は他にもメキシコ、ペルー、アルゼンチンなどの南米にも存在していたといいます。日本人奴隷の売買は、スペイン=ポルガル国王によっても1603年には禁止されますが、その2年後にはゴアからの抗議を受けて曖昧なものとされています。それほど日本の奴隷市場がポルトガル商人にとって巨利を得るものだったのです(出所:「戦国日本/平川」P86)。

当時の日本においては、特に戦場で食糧や物の強奪だけでなく、人もその対象となったことは「乱取り」という言葉で知られている。売買の対象となったのは、戦場での捕虜が多かったようだが、他にも誘拐や飢饉の際の「口減らし」など、背景はさまざまであった。また、「奴隷」といっても、強制的に苦役を命じられるものだけでなく、「召使い」や「傭兵」としても使われ方もさまざまであった。特に後者に関して言えば、日本人の戦闘力の高さは有名で、のちのイギリス東インド会社も、拠点防衛のために日本人の傭兵を雇っていたほどであるし、明は、朝鮮半島での日本人捕虜を、北方の異民族の制圧にも使っていたことが知られている。

続く

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