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10-13.阿部正広の死

1857年8月6日

ここまで大きく舵が切られたのは、阿部正弘が死去したことが大きいと言われています(出所:「日本開国史/石井孝」P235)。彼は4〜5月頃より、登城できない日が続くなど体調が悪化していましたが、8月6日に亡くなってしまったのです。38歳という若さでした。

1843年、25歳から老中を務め、その在任期間はあしかけ15年にも及ぶ長きにわたりました。しかも、老中就任当初からアヘン戦争の日本への余波、並びにオランダ国王からの親書返答問題と、内政でなく外政が中心の舵取りになったことはこれまで見てきた通りです。

阿部は、通商やむなしとは考えていましたが、堀田や海防掛の目付系グループほど先鋭的ではなく、彼らに比べれば消極的ではありました。どちらかといえば、勘定系グループと近かったかもしれません。その彼が亡くなってから大きく舵がきられたのです。

目の上のこぶ「徳川斉昭」

阿部がハリスの出府許可について、徳川斉昭の問題から消極的だったことは前述しました。阿部は斉昭を説得する自信がなかったからです。斉昭は阿部が海防参与というかたちで、顧問的な立場で幕政に参加させた経緯があります。水戸徳川家は御三家でもあり、かつ斉昭は世間一般からは人気がありました。

それだけでなく、いわゆる当時、「攘夷」を唱える人々の中心的な存在でもありました。斉昭は、自分の意見する内容とはことごとく違った方針が出されるたびに、海防掛の官僚たちに猛抗議をします。それを取りなすのが阿部の役割でもありました。しかし、どうしても取りなせなかったものが、先の日露条約の「ロシア人領事の滞在」、そして、今回のハリスの江戸出府でした。

阿部はなぜそんな斉昭を顧問的な立場に引っ張り出したのでしょう。それは、「毒をもって毒を制す」だと言っていいと思います。世間から人気もあり、声も大きい彼を「野」に放っておくより、自身の目の届く範囲で「飼い慣らす」ことが得策と考えたからです。阿部は彼を「困った人」だと思っていたでしょうが、斉昭は阿部を非常に可愛がっており、阿部は彼を上手にたて頻繁にやり取りをしていました。しかし、この時期になると、阿部も斉昭を遠ざけていたようで、それは斉昭自身も感じており、ますます不平の意を強くするようになっていきます。

斉昭が編著となっている「新伊勢物語」は、阿部と斉昭の往復書簡を中心にまとめられたもので全5冊にも及んでいる(出所:「幕末政治家/福地桜痴」P279)。

超一流の「二流政治家」

徳富蘇峰は、阿部を超一流の「二流政治家」と評しています。「一流」が、自ら方針を打ち出してリーダーシップを発揮しつつ政治をおこなう政治家だとすれば、阿部はそれとは対極にあったからです。

後世、田辺太一も福地桜痴も阿部の決断のなさを嘆いていますが、阿部は自らがリーダーシップを発揮することのない、いわば「調整型」のリーダーでした。しかし、阿部の特筆すべき能力は、決して「敵をつくらなかった」ことであるかもしれません。しかも、「とんでも意見」を言い放つ斉昭を飼い慣らそうとまでした「剛毅さをも持っていたわけです。

阿部の調整型リーダーとしての一面は、彼の死の間際においても遺憾無く発揮されています。阿部は。彼の病状を心配した諸藩の藩主などからの「蘭方医」の派遣を断り、これまでのどおり漢方医による治療を続けていたのです。トップたる自分が、外国の医学に頼ってしまっては、世の中にどんな影響を及ぼすかを心配したからです。それほど気を配ることのできた人間でした。

放たれた斉昭

阿部の死後すぐに、斉昭は自らの参与たる資格を返納します(1857年8月)。もはや、自分の役割は終わったと考えたからですが、自ら「野」に飛び出た斉昭は、それまでの鬱憤を晴らすかのように、自身の主張を盛んに周辺に広めていきます。

彼の筆の向かった先には「京都」もありました。天皇を取り巻く側近へも自らの意見を広めていくのです。後の世を知っている私たちからみれば、この斉昭の行動は「害悪」でしかありません。阿部が早逝せず、斉昭がこんなことをしなければ、日本の歴史は間違いなく違った歩みとなったはずです。仮に阿部がこの時死去してしまったとしても、斉昭のその行動がなかったと仮定するだけでもそうです。なんということをしてくれたのか、というのが私の率直な思いです。

阿部の残した宿題

また、阿部はもう一つ大きな宿題を残しました。将軍継嗣問題です。13代将軍家定の後を誰に継がせるのかという問題でした。外には外国との通商問題、内にはこの将軍継嗣問題と、この時期の幕府は大きな問題を2つ抱えており、この後者の問題が阿部の死後、雄藩や京都をも巻き込んだ政治問題化していくのです。

続く


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