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6-5.ナショナリズムの高まり

モンロー主義

イギリスとの2回目の戦争はアメリカ国内においてナショナリズムの高まりを促進させました。マディソン政権下の1815年には、道路・運河網の整備拡大、製造業を保護するための高率関税の設定、中央銀行設立の方針が打ち出され、続く第5代大統領ジェームズ・モンロー政権下(1817〜1825)では、外交においても、その後伝統的な外交方針として踏襲されていくことになる「モンロー主義」の原則が打ち出されます。そこには、以下のような主張が盛り込まれていました。

  1. 非植民主義の主張
    西半球はもはやヨーロッパ諸列強の植民対象ではない(この頃、多くのラテンアメリカ諸国は、ヨーロッパの宗主国から独立を果たしていた

  2. 相互不干渉の主張
    ヨーロッパの政治体制(君主制)は西半球のそれ(共和制)とは相容れない。ヨーロッパの政治制度を西半球に拡大しようとする試みは認めがたい。合衆国はヨーロッパの問題に干渉することはしないので、ヨーロッパも西半球の問題に介入すべきではない。
    (出所:「アメリカの歴史(上)/紀平英作編」P129)

この主張は、基本的には初代大統領ワシントンや第3代のジェファーソンの、ヨーロッパ諸国の対立抗争に巻き込まれることを懸念した外交方針にそったものだったが、このモンロー主義の裏には、西半球(ラテンアメリカ諸国)からヨーロッパ勢力を排除し、将来的には合衆国が西半球に勢力を拡大していくための余地を残そうとする姿勢を示したものであった(出所:「アメリカの歴史(上)/紀平英作編」P130)。

ジャクソニアン・デモクラシー

第7代大統領アンドリュー・ジャクソン(1829〜1837/2期)と、続く第8代マーティン・ヴァン・ビューレン(1837〜1841/1期)の時代は、「ジャクソニアン・デモクラシー」の時代と呼ばれ、政治的経済的な民主化の達成された時代とされています。この頃には、多くの州で一定の年齢(おおむね21歳)以上の白人男子には選挙権が与えられ、州知事や州議会議員、裁判官から地方官吏にいたるまで、すべて選挙によって選ばれるようになっています。

また、現代では考えられないことですが、移民の帰化手続きは各州政府に委ねられ(1891年に連邦政府所管となった)、その手続きも簡略であったために、アメリカに到着したばかりで英語も話せず、政党の区別すら理解できない人びとも、容易かつ大量に有権者として扱われていました。そして、それは以下のような形でアメリカ国内に大きな課題となって出現してくるようになるのです。
 
「まさに彼らが有権者であったがゆえに、職業政治家たちは、帰化手続きの手伝い、就職の世話、入居の斡旋、病気や失業の際の金銭的支援など、ありとあらゆるかたちで移民の面倒をみた。その見返りに移民たちは、これら職業政治家たちに投票し、その結果彼らは大都市において一大政治勢力となった。」(「アメリカ史(下)/紀平英作編」P6)
 
この「一大勢力」は、のちに日本との間に大きな摩擦を生み出していき、連邦政府もそれに引きずられていくようになりますが、後述します。

追われるアメリカインディアン

ジャクソン政権は、先住民を現在の居住地で定着農耕させるのではなく、ミシシッピ川以西のルイジアナの土地(現オクラホマ州)へ強制的に移住させる政策をとります。この政策に反抗して、武装蜂起する部族もありました(先住民との戦いは1890年、スー族をほとんど全滅させた戦いが最後)。

この政策は、南部綿作地を大幅に拡大させることになりますが、同時に南部プランターの利益を増進させ、南北の地域間対立をさらに先鋭化させることになりました(出所:「アメリカ史(上)・紀平英作編」P145)。

1万5千人のチェロキー族は、この強制移動によるオクラホマへの116日間の道程で、4千人が死亡したといわれている。(出所:「アメリカ史(上)・紀平英作編」P144)。

続く

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