見出し画像

1-14.ぞくぞくとやってくる宣教師たち

「神」は「大日」と訳された

上陸した宣教師たちは、当初彼らの「神」を「大日」、「聖母マリア」を「観音」、「天国」を「極楽」と訳さざるを得なかったアンジローの言葉をそのまま使っていたので、信者となった日本人が「キリスト教」として理解していたかは大いに疑問です。おそらく仏教の一派と思われたのではないでしょうか。

また、宣教師らを悩ませた問題の一つに、日本人の発した、宣教師が説く「神」を知らずに死んでいった祖先たちは、ずっと地獄におちたままなのか、そんな「神」は信じられない、または、すべてのものを善なる「神」がつくったのなら、なぜこの世の中には「悪」が存在するのか、といったような質問です。ザビエルはゴアへ向けた書簡のなかで、「日本にやってくる宣教師は、哲学などを十分に学んだ優秀なものでなければいけない」と書き送っています(出所:「キリスト教/石川」P36)。

ザビエルのその後、2年の滞在で日本を去る

ザビエルは、鹿児島上陸後、長崎、山口、堺、京都にまで足を伸ばして宣教をします。彼が最後に滞在したのが豊後(現大分県)の大名、大友宗麟そうりんのもとでした。宗麟は彼に領内での宣教を許します。そうすることによって、ポルトガル船の来航を望んだからです。また、宣教師は、ポルトガル商人との間にたっての通訳としても必要だったのです。宗麟は、帰国するザビエルに2人の使者を同行させ、ポルトガル国王とポルトガルのインド副王に親書を届けました。のちに自らキリシタンとなってもいますが、その裏には、ポルトガルとの貿易を拡大したいという富の追求、そしてなにより彼らが運んでくる鉄砲や火薬が必要だったことも、その理由にあったと思います。

ザビエルは、大分から一旦ゴアに戻り、そのあと中国へ渡りますが中国で病のために46才で死去します。彼の日本滞在は2年程度でした。

彼の遺体はその後ゴアの教会に運ばれて安置された。ミイラ化した遺体はケースにいれて保存されており、今でも10年に1度一般に公開されているらしい(出所:「キリスト教/石川」P31)

九州が日本のキリスト教の拠点になる

九州には、多くのポルトガル船、並びに宣教師がやってくることになり、日本におけるイエズス会の一大拠点となっていきます。一般民衆だけでなく、大名としても宗麟のほかに、肥前(現佐賀県、長崎県)の有馬晴信や大村純忠、松浦隆信(平戸領主、長崎県。前述の王直に拠点を提供した)などがいます。彼らはのちに「切支丹(キリシタン)大名」ともいわれるようになります。特に大村純忠は、のちに長崎をまるごとイエズス会に寄進(1580年)しています。

文化庁の「宗教統計調査2016」によれば、今でも長崎県の人口100人あたりのキリスト教徒の比率は、東京に次いで全国2番目の高さ(4.76人)となっているが、こういった歴史がその背景にあるといっていい。

宣教師たちが残したもの


宣教師たちは、日本人の修道士、司祭を育てようと長崎に神学校をつくったほか、貧民の救済もおこなっていました。また、中には商人でありながら、自らの私財をすべてなげうち、日本で初の西洋医術(もっとも、この頃は西洋医術といっても近代のそれとは比べ物にはならない)をもとにした病院を建設(1557年)したルイス・デ・アルメイダのような人物もいます。大分市には「西洋医術発祥記念像(タイトル画像)」が建てられているほか、彼の名前を冠した「大分市医師会立アルメイダ病院」が存在しています。

貿易と一体化するキリスト教

宣教師たちの活動資金は、それぞれの王国からの送金が基本となっていましたが、時間もかかる上、長い航海のために確実ではありません。常に資金難に苦しんでいました。したがって、彼らは当初から商人と一緒になって自らも商行為の一端を担わざるを得ませんでした。私欲のためではなかったと思いたいですが、活動するには何よりも資金が必要でした。ですので、キリスト教と貿易は必ず一体化していたのです。

次回、余話として「ザビエルの見た日本」、彼がゴアへ書き送った手紙の内容をご紹介します。

続く

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?