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10-6.岩瀬忠震

幕臣岩瀬誕生の経緯

岩瀬は、1853年のペリー来航後の、阿部正弘の人材登用政策によって世に出てきた人間です。幕府の昌平坂学問所での成績優秀者で、1849年31歳で初めて番入り(幕府内で職を得ること)し、その翌年から甲府徽典館きてんかん(山梨大学の前身)の学頭を命じられました。その後江戸に戻り、昌平坂学問所教授方(今で言えば文学部准教授みたいなもの)を務めた、いわば「儒者」でした。大平の世ならば、そのまま儒者として一生を終えたでしょう。

その彼が、「徒士頭かちがしら」に任命されたのが1853年11月、文学部教授から防衛省の局長に転身したようなものだと思います。その後すぐ(1854年2月)に、阿部は彼を海防掛の「目付」に昇進させたのです。幕政の中心に入る官僚です。

江戸時代は、子が父の職位より上になることはできませんでした。岩瀬の父(養父)は「書院番組頭」だったので、岩瀬の目付昇格は、その不文律を破るものでした。

「目付」職

「目付」という職は、今で言えば監査役のようなもの。この時代目付は多くの重要な政務の座に同席し、老中や奉行の相談役としての任を帯びるようになった。この職の棒給はそれほど高くないが、全ての部局に関係するから極めて威厳があった。政策決定を左右できるほどの力を持ち、旗本の中で最も羨ましがれるのがこの職だったらしい。その上が「大目付」である。

「もし、老中が政治を変革しようとすれば、まずこの部局を一変し然る後に他の役職に及んだ。だから諸有司は、目付の考えに自分を合わせるよう努めた。すなわち目付に人を得るとは得ざるとは一世の盛衰に関係した(「岩瀬忠震/小野寺龍太」P43)」。

ちなみに江戸時代の「学問」の中心は、漢籍の古典(いわゆる「四書五経」と歴史(史記や三国志など)を学ぶだけであって、日本の歴史はない。他に詩文(漢詩)の作成であった。

再び、福智桜痴の岩瀬評

「独り岩瀬は、初めより少しく蘭書をも読みて、いささか外国の事情を知れりとはいいながら、この非開国の群議の間に立ちて、断然世界の通義を主張し和親貿易の条約は欧米諸国の望に応じてこれを訂結せざるべからず、しからざれば日本は孤立して国運もついに危うしと公言し、以て閣議を動かしたるは、岩瀬なり。」(「幕末政治家/福井桜痴」P258)

続く


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