「死者」へも思いやりを
執筆経過
1543年のポルトガルのセウタ攻略から書き起こし始めた物語も、マガジン「11.初の通商条約締結」として、1857年まで進みました。思いの外分量が増え、これまで原稿用紙で500枚弱・・・。これが終わると、次はいよいよ「安政五カ国条約」の締結から、開港、そしてその後の大混乱までをアップしていく予定です。
壮大な企て
この物語の終章は、昭和の終わった1989年、しかも、真に書きたいことは1868年から1945年までの明治・大正・昭和20年までなので、果たして全体でどのくらいのボリュームになり、そしていつ完成するのやら。
準備の過程で
いろいろ資料を漁り、執筆の準備をしているのが、現在は「明治」時代。1872年の「岩倉使節団」から、日清・日露戦争を経て韓国併合までの物語です。そうして、わたしたちの父祖にあらためて感謝しないといけない、とつくづく思いました。よくぞこの国の独立を全うしてくれたと感激するほどです。
爰に不幸なるは近隣二国あり
明治18年(1885年)3月に、福沢諭吉主幹の「時事新報」の載った社説の一説です。彼の「脱亜論」として名高いものです(近年、福沢の筆によるものではないとのことが事実とされている)。
福沢のいう二国とは、朝鮮と清。福沢は特に朝鮮に対して絶望したのです。彼は、朝鮮の近代国家への脱皮を目指す朝鮮の開明派官僚を、熱心に支援していたのです。そうして、その官僚たちのクーデターをも支援し、その成功の暁には、朝鮮国内での言論による啓蒙(新聞発行)を目論んで、自身の部下に「ハングル文字」の活字(日本で制作させた)を持たせて、朝鮮へ渡らせてもいました。
その挙が失敗しての絶望が、この文章に表れていると思います。
しかし、ふと思えば現在もそのままやん!と、わたしは思います。中華人民共和国と大韓民国。これらが近隣にある不幸・・・。
とにかく、めちゃくちゃな国
一言でいえば、この頃の二国はこう表現しても間違ってはいないと思います。例えば、清は、アロー号戦争で英仏連合軍に北京まで迫られ、慌てて降伏しようとします。しかしその条件を交渉するために派遣された英仏の使者を人質にして、再度戦闘を始めてしまうのです。もちろん、欧米は激怒しました。最終的に降伏するにあたって、清が過酷な条件を飲まされたことはいうまでもありません。
しかしそれでもなお、清は目覚めることなく、彼らの言う西夷(西の野蛮人)との交渉を行う政府機関をしぶしぶ作らされましたが、西夷との交渉部署は、朝貢してくれる朝鮮や、琉球、ベトナム使節を扱う部署よりも下位におくといったことまでもしています。
一方、朝鮮は400年にも及ぶ中国大陸への従属が続いており、国の防衛すらおろそかしにしたまま、親とも仰ぎ見る清が西欧諸国に蹂躙された状況を知っても、何も変わらぬ状況でした。
呉善花氏によれば、1858年には朝鮮人口のほぼ半分が*支配階級だったといっています(出所:「韓国併合の道完全版/呉善花」P28)。続けて「そんな国は世界のどこにあるのだろうか」とも。
※文官と武官、あわせて両班とよばれる
その支配階級は権力争いに明け暮れ、しかも権力を握ったあとは、争った人たちを、ことごとく処刑、あるいは牢獄へといったありさま。驚くことに、現代韓国でも、前大統領は同じような境遇へと貶められていますから、これが朝鮮の伝統かもしれません。
西欧の衝撃の受け止め方
翻って、幕府はやはり「武」の政権だったことが幸いしたのでしょうか。彼我の戦力差に愕然としたのが、西欧への対応の出発点でした。そこショックから猛烈に、西欧の文物を学び、取り入れたは周知の通り。
わたしは、このわたしたちの父祖の方策に感謝しています。そうして、国と国との交渉とは言え、矢面に立つのは「人」であり、しかもその「人」は、今で言えば勤め人だったわけで、今のわたしたちが感情移入するのも容易です。
タイトル「使者へも思いやりを」は、こうした父祖へのそれを言っています。
ちなみに同じ頃、朝鮮半島へも西欧の船(ロシア・ドイツ・フランス・アメリカ)は盛んに接触をしてきていますが、そのすべてを朝鮮は撃退しています。清のように蹂躙されなかったのは、西欧側が本気ではなかったこと、及び彼らの国内事情が大きかったためで、軍事的に優っていたからではありません。それを知らず、ますます増長していったのが当時の朝鮮で、日本との対応の差に驚いています。
終わり
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