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9-5.3つの条約のまとめ

幕府が締結した3つの条約

この時点で、日本が対外的に結んだ条約は、日米和親条約(1854年3月)、日英約定(1854年10月)、日露通好条約(1855年2月)の3つとなりました。オランダとは条約の締結こそありませんでしたが、日米のそれと同様の内容が与えられています(1854年10月)。いずれも「通商」に関する規定はありません。ロシア以外には領事駐在権も認めていません(日米とのそれは、日本側は認めていないと解釈していた)。

南京条約との比較

ここで、日本が結んだこれらの条約と、清朝がイギリスとの間に結んだ南京条約(1842年8月)をあらためて比較してみましょう。

同条約は13条からなります。第2条で広州・福建・廈門あもい寧波にんぽー・上海の5ヶ所を通商のために開き、イギリス領事の駐在だけでなく、イギリス人の居住を認めています。

第3条では香港の割譲、第4条で没収されたアヘンの賠償金を支払うこと、第5条では開港地における自由交易、第6条でイギリスの戦費の支払い、第7条でイギリスへ支払うべき総額2100万ドルの分割方法が記載されています。

また第11条では、完全に対等な立場での文書によるやりとりが記されています。これは、「朝貢」というものの全否定です(条約文にそれが記載されるなど、清朝の尊大な態度はイギリスにとって、よほど我慢ならないものだったのでしょう)。

前述したように、これはまさに「敗戦条約」でした。

このあと、イギリスはさらに詳細かつ、よりイギリスの主張を盛り込んだ規定を清朝に認めさせます。そして、アメリカ(望厦条約)、フランス(黄埔条約)も同様の条約が締結されていきます。

これにくらべて、日本が結んだ条約は、欠乏品以外の取引を認めておらず、領事の駐在もロシア以外には認めてはいません。また、領事以外の外国人の居住など交渉の過程でも出てこなかったのは、みてきた通りです。

南京条約では開港と通商がセットでしたが、日本が結んだ条約はそうではなく、あくまでも補給所、避難所としての「開港」だったのも大きく異なる点です。

なんにも変わらなかった清朝

しかし驚くことに、清朝はこの条約を屈辱だとは感じていませんでした。彼らの伝統的世界観(冊封、朝貢、華夷秩序)は微塵も揺らぎをみせなかったのです。「清朝からすれば、武力を用いて野蛮なことをする連中に少し譲歩しただけ」と受け止め、国家間の対等的な関係を樹立したとは考えておらず、依然として西洋人を「夷狄いてき」扱いすることは続いたのです(出所:「近代日本外交史/佐々木雄一」P39)。

幕府が、ペリーの最初の来航からまもなく(1853年10月)、オランダへ軍艦の発注をし、諸藩もこれに続いたこととは大きく異なります。この差は一体どこにあったのでしょう。これは、日本が武家政権だったこともその一因にあったかもしれません。

ちなみに、清朝が洋式海軍の建設に乗り出したのは、1866年。日本より10年以上あと、南京条約からは22年も経ってからのことです。

続く

タイトル画像:南京条約の調印式




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