4-3.行き交うモノの変化
銀の減少
この世紀(18世紀)になると日本から出ていくモノに大きな変化が現れます。原因は日本産の「銀」の減少です。すでに17世紀半ばごろ、対外決済に使われていた「銀」は地金ではなく、幕府が鋳造した「慶長銀」という銀貨でした。国内においてもそれは広く流通していました。幕府は、オランダへの銀輸出を1660年に禁止し、中国へも1680年代に貿易定額制をとり、銀や銅(この頃は「棹銅」として、銅も決済手段として使われていた)の対外流出を抑制するようになるのです。
長崎に持ち込まれるモノは、中国船、オランダ船ともに中国産の「生糸」がメインでしたが、銀の輸出制限が行われるようになると、長崎に持ち込まれる「生糸」は激減します。
かわって出てくるのが、朝鮮―対馬、琉球―薩摩の貿易ラインでの「生糸」でした。幕府直轄ではなく、統制・管理が及ばないこの二つのラインでは「銀」」は変わらず対価として流通し続け、そこから「生糸」は変わらず日本に入ってきていました。これは1750年頃まで続いていたといいます。今に残る京都「西陣織」は、当初は中国からの生糸の輸入によって成り立つ高級機織物でした。江戸時代中期以降、何度も出される奢侈禁止令に、必ず「絹」製品の着用を禁止することが含まれているのは、まずは、銀の流出に歯止めをかけたかったからかも知れません。と同時に、多くの「絹」の需要があったことがわかります。
いわゆる「バブル」元禄時代
1680年から1709年の約30年間は「元禄時代」と呼ばれ、政権の安定と同時に、世の中が大きく変わった時代です。代5将軍徳川綱吉の時代にあたります。貨幣経済が進展し、衣食住のうち、「衣」の分野でいえば、それまでの「綿」から「絹」への志向が幅広い階層に行き渡った時代でした。それまで、それを着用できたのは、上級武士や富裕層でしたが、元禄時代になって可処分所得が急増すると、瞬く間に一般庶民に広がっていくのです。絹織物は普通「呉服」と呼ばれます。この時代になるとその呉服屋が急増します。有名なのが「三井越後屋呉服店」でしょう。現在の「三井グループ」の元です。1673年の創業です。その繁盛ぶりは、のちに「芝居千両、魚河岸千両、越後屋千両」と呼ばれ、1日に千両を売り上げるほどでした(出所:Web「三井広報員会・三井の歴史」)。
生糸の国産化
幕府は、生糸の国産化を図ります。これは1713年に、西陣に国産生糸の使用を要請したことを皮切りに、徐々に品質で中国産に劣らないものが出来上がったといわれています。完全な国産化には7〜80年程度の時間が必要だったようです。この約100年後に著された※養蚕業の手引書は、フランス語の訳本も著されたほどのものだったと言います(出所:「アジア交易圏と日本工業化/17・18世紀東アジア域内交易における日本銀/田代和生」P138)。
この頃には、朝鮮との重要な品目であった「朝鮮人参」の国産化にも成功しています。幕府は、「銀」や「銅」の流出を防ぐため、それまで輸入に頼ってきた商品の国産化に成功したことになります。
※この「生糸」の国産化に成功したことは、のちの日本に大きな恩恵をもたらします。維新後に主要な外貨獲得手段となったからです。よちよち歩きの「近代」日本が外国から武器を買えたのも、もとをたどればこの幕府の方策によるものです。
対中国向け海産物の輸出
また、対中国貿易でいえば、「銀」の代わりに「俵物」と呼ばれた海産物を輸出の柱にしていきます。「干しアワビ・イリコ・フカヒレ」が俵物と呼ばれ、「コンブ・スルメ・干しエビ・トコロテン等」は「諸色」と呼ばれていました。
特に俵物は前述した清の宴席料理に高級食材として使われたのです。今でも「フカヒレ」や「干しアワビ」は中華料理の高級食材ですが、その頃から日本のそれを使用していたことになります。
国内では、三陸地方、そしてアイヌとの交易でそれを得た松前(蝦夷地)がその産地でした。
※この養蚕業の手引書とは、蚕種改良に尽力した但馬の養蚕家、上垣守国が養蚕・製糸の技法を記述した絵入りの実用書で「養蚕秘録」とよばれるもの。その頃生糸の不作困っていたフランスにとって役に立つ参考書でした。
タイトル画像出所:一般財団法人人文学情報研究所「養蚕秘録 享和3 (1803)年刊」
https://www2.dhii.jp/nijl_opendata/NIJL0232/049-0075/3