【鑑賞】とは時間をかけることである

前回の続きで、インタビューを受けて考えたことのメモその2。この記事ではインタビューでの大きなキーワードのひとつであった【鑑賞】について考察する。

大きなキーワード、といっても、まさか直球で「北野先生にとって鑑賞とは何ですか?」という質問が来るとは思っていなかった。おお、話が壮大だ……となったが、風呂敷の大きな議論は嫌いではない。いやあ、何なんでしょうね? とお茶を濁しつつ、なんかおもろいこと言えんかな、と頓知をはらかせてみた。

鑑賞とは時間をかけることである。

特に議論の展開がみえていてそのように言ったわけではないが、とりあえず喋りながら考えるか、と口に出してみた。多分、前回の【地域】の考察をしながら、どこか脳内のバックグラウンドで「時間」というワードが立ち上がっていて、何か関係しそうな予感があったのだろう。

鑑賞とは時間をかけることである。より細かく言えば、ある対象と時間を共にする関係に入ること、が鑑賞である。何度も繰り返し見ているコンテンツや、ずっと聴いてるお気に入りのバンド、毎日食べている喫茶店の定食、あるいは、普段は忘れているけど時折フッと思い出すあの時のアレ。まあ、例は何でも良いのだが、そのように自らと対象が継時的に関係を成す状態のことを鑑賞と考えてみよう。

いや、むしろ習慣化されることで、対象との関係性が膠着し、理解や解釈が損なわれる場合もあるだろう。しかし対象が身体化されることで、ようやく理解や解釈に及ぶための準備が整うとも言える。たとえば、対話型鑑賞には自らの感覚や思考の契機を、対象のなかに探究するための問いがある。

どこからそう思いましたか?

これを鑑賞の場面で問うと、多くの人に「ギョッ」とされる。「え……どこから……?」みたいな反応もしばしばである。これは単に、ある思考の型に慣れていないから、鑑賞能力が未熟であるからというだけはなく、時間的なレディネスが整っていないから、とも解釈できる。

つまり、「どこからそう思ったか?」という問いが内発的に湧き上がるのは、通常、対象と一定の時間を過ごしてきた後である、ということだ。長く関係を共にしてきたパートナーとうまくいかなくなったときに、「どこが好きだったんだろう?」と思い悩んだり、思い出の料理を再現しようとしてもひとあじ足りず、「どこが違うんだろう?」と首を捻ったりするわけで、自然状態では即時的にホイホイ出てくる問いではないのである。コントで爆笑しているときに「どこから面白いと思いましたか?」と聞いてくる奴は野暮の極みであるが、推しの芸人の動画を何回も観ているうちに「やっぱりここが上手いよな……」とか自問自答しちゃうかもね、ということである。

ちなみにこの「レディネス」は、術・癖・凝の話ともつながっていて、対象が自分のなかに浸透・沈着して、ひとつの「凝」を成している状態ともいえる。それを操作可能な理解・解釈(=術)へとほぐしていくプロセスが、「どこから?」という問いなのかもしれない。「どこから?」が最大限に効き目を発揮するには、まずは凝(思考の土台)を固めてもらわないとアカンのである。

さて、なんだが話が輻輳してきたが、要は、対象と関わる時間をいかにデザインするか、それこそが鑑賞のミソである、ということになる。対話型鑑賞の問いは、時間のかかる行程を圧縮し、疑似的に鑑賞を体験するためのtipsなのかもしれない。疑似的に、というのは、どうやっても1回の対話型鑑賞のみでは、ここでいう意味の鑑賞には到達しないからである。というか、人生の中で永い時間をかけて自分と関係を成し、身に染みるような形で自分のなかに位置を占めているもの、自分の思考や行動に深いレベルで根を張っているもの、そんなものは両手で数えるほどしかないだろう。そんな頻繁に鑑賞が起こっていたら、人生が忙しすぎる。

だからと言って、鑑賞教育の試みが全て無駄であるとは思わない。時間的な結晶を成す【鑑賞】を極北として、そこへのアクセス可能性を開く、様々なレベルでの鑑賞をグラデーションのように配置していくことが、鑑賞教育のひとつの意義である。また逆を言えば、いちども鑑賞をしたことがない、という人は、それはそれで稀であろう。誰しも10年に1回くらいは、それが文化芸術に類する作品であるかどうかは別にしても、自分のなかに他者を招き入れて居候させているものだと思う。鑑賞の感覚は誰もがその身に宿しているはず。これは、鑑賞教育のひとつの希望である。

ちなみに、前回の記事の最後に「対向車線としての【地域】には時間が流れている」と書いた。今回の記事での「時間」の考察を、そこに代入してみるならば、どんなことが言えるだろうか? 時間があれば鑑賞してみてもらえれば幸いである。

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