創造性の肩凝り

 前回の続き。件のラジオ収録はおかげさまで無事終了した。こちらは無料公開とのこと。

CULTIBASE Radio
*36 創造性の種としての“術”と“癖”、そして“凝り”
*37 他者の“術・癖・凝り”を鑑賞し、活かす技法

以下、忘れないうちに考えたことをメモしておく。

論点は、術と他者との関係性で、「術は他者によって齎されるほかない」というテーゼ。そこから理路はふたつに分かれる。
 

とすれば、誰かの術を開花させるために、自分は相手にとっての他者としてどのように関わりうるのか。(いわばファシリテーションの技法)
 

あるいは、自分の中の他者である癖を術と成すために、どのように身を処すべきか。(自らを部分的に他者と見立てる自己他己分析)
 
①の経験を②に活かし、②の観点を①に応用する、といったように、結局のところ両者は相補的であるのだが、ここでは②から始めてみよう。
 
まずは前回までの議論をざっと復習すると、こんな感じである。物事の「見方」「考え方」「やり方」が「術(すべ)」であり、それが洗練されることで創造性が発露する→意識的な術の行使の前段階に、無意識的に思わず反復してしまう「癖」がある→さあ、どうしたら、癖が術になるのだろう?
 
素直に考えれば、癖を意識しようぜ、ということなのだが、これがなかなか自分では気づけないので、①のルートで他者からのファシリテーションを待つことになりがち(あなたいつもこうしてますよ!)。この地点から、今回のラジオの機会をいただいたことで、考えが前進した。
 
他者からのファシリテーションを求めることは、単に受動的に待つ態度を意味するだけではなく、感度を高めて能動的に他者の訪れを受信しようとする行為でもあるはずだ。②のルートで言えば、何か自分を内側からノックしてくる、他者のありかを報せてくれる癖……いや、ただの癖では弱い、それが極まった塊りのような存在は想定できないだろうか……。そこで閃いた。
 
それは「凝(こり)」である。
 
凝。肩凝り。趣向を凝らす。凝固、凝縮。癖が固着し、硬直化したものが「凝」であると、仮にそう考えてみよう。凝は、身体的・直感的に、「ここに自分の意志ではままならない他者的存在がいるぞ」と私たちに訴かけてくる(首バキバキに凝ってるわ!)。その凝を、ある種のメタファーとして捉えるのだ。
 
何を言っているのだろうか? もう少し説明が必要だろう。私はしょっちゅう首が凝るとしよう。それを、私の見方・考え方・やり方の偏りを示す、私という他者の比喩表現だと解釈しよう。首の「凝」は、私の「首が回っていない」ことを象徴しているのかもしれない……そういえば私には、ついつい各所に借りを作ってしまう「癖」がある。そこで下手をうつと首をやらかしてしまうわけだが、それは多方面に入りと出のダイナミズムを拓く、関係構築の「術」の萌芽でもありうる。私の裡には、本来はつながらないはずの他者たちを、私を交差点にして往来させる「術」がアイドリングしている。
 
注意して欲しいのだが、いましがたの説明も、具体的な事例の考察でありつつ、一種のメタファーである。首が凝る人みなに借金癖があるというわけではないし、ここでの「借り」や「入りと出」に金銭以外の含みを読みとることもできる。あと、別に肉体の「凝」に限定しなくても無論OKである。身体部位の凝りに比するほど、まざまざと知覚可能な何か、である。それを、現実的に採用できる読みかどうかはともかく、いったん誇張的なまでに面白がってみるのだ。話も長くなってきたので、とりあえず了解を得たことにしておいて、先を急ごう。
 
この「凝」概念によって、かなり一連の議論の見通しが良くなってきた。たとえば、「癖」が凝り固まってしまうことで文字通り「凝」になるのだとすれば、「術」に向かうためには逆に「癖」をほぐして融通性や操作可能性を高めていけば良いのではないか、といった整理も可能になった。これまでは、「癖」を体系化して「固めて」いくことで、「術」を構築するイメージだったが、それはむしろ望まぬ「凝」になる危険性がありそうだ。
 
こういうふうに言うと、「凝」が負の意味や価値を帯びているかのように思えるかもしれないが、そこは両義的だろう。「自分でもよく分からないけど、これはどうしてもこうなっちゃうんです」という岩盤のような他者性があるからこそ、「術」を構築するための素材と足場を確保することができる、とも言える。
 
さて、ずいぶん長くなってしまった。ちなみに、このような書きぶりは、それこそ筆者の「凝」である。文章が長くて物理的に肩も凝った。創造性がどこに潜在しているかと言えば、それは誰しもが抱える肩の凝りにでもわだかまっているのである。
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?