【書評】鑑賞のファシリテーション ~深い対話を引き出すアート・コミュニケーションに向けて~

平野智紀氏の著書『鑑賞のファシリテーション ~深い対話を引き出すアート・コミュニケーションに向けて~』について書評を書きました。美術科教育学会の学会通信に掲載されていますが、関係各所の許可をいただき、このnoteでも下記に転載いたします。

せひご一読いただき、平野氏の著書を手に取っていただければ幸いです!

1.本書の背景


対話型鑑賞とは何か。本学会においては用語の意味からあらためて説明する必要はないかと思われる――が,もう少し踏み込んで「その来歴および現状と課題を述べよ」と言われると,途端に筆が重くなるワードでもあるのではないだろうか。

昨年, 東京国立博物館にて開催された フォーラム「対話型鑑賞のこれまでとこれから」においても, 対話型鑑賞の流行に充分な理解が伴っていないことが懸念されていた。ラフな言い方を許してもらえれば,「何となくは知っているし,それらしいことを体験したこともあるけど,具体的な理論や方法論と言われると……」くらいの理解度で,流行というよりも怪しげな実践が「横行」している感が否めないのが対話型鑑賞の現状である。

なぜそうなってしまったか。そこには複数の事象や事由が絡まりあっているのだが,「日本の状況をふまえつつ理論的背景や実践方法論を総合的にまとめた基礎文献」が,これまで書かれていなかったことも障害のひとつになっていたのかもしれない。

もちろん本学会誌においても,2000 年代なかば以降,対話型鑑賞に関する論文は継続的に掲載されており,一定の蓄積がある。しかし,個別の論題に限らずに網羅的に知見が整理され,そのうえで体系的な探求が行われている記述の厚みをもった文献――これはやはり見当たらないのが実状だろう。そのような状況下, 待ち望まれた一冊として刊行されたのが,本書『鑑賞のファシリテーション ~深い対話を引き出すアート・コミュニケーションに向けて~』である。

2.各章の概要


本書は,著者である平野智紀氏が東京大学大学院学際情報学府に提出した博士論文がもとになっている。博論ベースの著作であるからして,第1章「対話型鑑賞の現状と課題」にまとめられた先行研究の調査には申し分のない広さと深さがある。多くの研究者が「あったら良いのにな」と思っていたであろう,「対話型鑑賞研究のための地図」が,ようやくここで描かれたというわけである。

そしてもちろん,本書の意義は「手際のよい先行研究の整理」に留まるものではない。本書の白眉は2つのリサーチクエスチョン「鑑賞者は,視覚形態と情緒的内容を組み合わせた高次のファシリテーションをどのように行っているのか」「ナビゲイターは,作品に関する美術史的情報をどのように鑑賞の場に導入しているのか」に基づく,次章以降の探求にある。

まず第2章「深い対話を引き出すための視座」では,「美術鑑賞を,学習科学における『知識構築』の視点から捉えること」が提案され,教育工学や学習科学の知見が積極的に導入される。慣れない語彙や議論に戸惑いを覚える向きもあるかもしれないが,関連諸学のあわいに存立する美術教育学においては,本章での学際的な記述はむしろひとつのロールモデルになるものであるとも言えるだろう。私見では,異なる領域の学知をコネクトする2章の行論によってこそ,本書の独自性・創造性が開かれているように思われる。

続く第3・4章は,それぞれ「鑑賞者同士のファシリテーション」・「美術史的情報の導入」と題され,リサーチクエスチョンを解明する「実証研究」として,対話型鑑賞における発話の分析およびナビゲイターへのインタビュー調査が行われている。かなりテクニカルな内容であり,ここでその詳細に触れることは叶わない。ぜひ実際に手に取って,「ここまでの解像度で対話を捉えるのか」と考察の道程をなぞりながら体感していただきたいところだ。

ちなみに,自戒の念を込めて白状すれば,かつて某書の「たった3つの問いかけで,授業が変わる!子どもがのびる!」という帯文を書いたのは筆者(北野)である。しかし無論,対話型鑑賞は3つの問いかけだけで構成されているものではなく,そこでは複雑な思考や方略が精妙に作動している。3章・4章の議論は「3つの問いかけ」の呪縛を晴らし,より豊穣な対話と鑑賞の場に私たちを誘ってくれるものである。

終章となる第5章「結論:鑑賞のファシリテーション」では,これまでの議論が総括され「対話型鑑賞において知識構築を促すファシリテーション」とは何なのか,その内実がついに示される。本書の結論部分であるので,ここでの半端な要約は控えさせていただこう。ただ,少しだけ予告的に感想めいたことを付言しておけば,本書の結論そのものは比較的穏当なものである。おそらく,対話型鑑賞の実践・研究に長く携わってきた読者であれば,違和感なく納得できるものだろう。逆に言えば,これまでの見方を大きく刷新するような,新奇性のある結論ではない。本書はむしろ,結論という一皿が完成するまでの,検証や考察の丁寧な仕込みこそが読まれるべきである。性急に結論のみを取り出すと,ほんらいの滋味を損なうことになる――これは対話型鑑賞の在り方とも同様であろう。ぜひ多くの方に,時間をかけて本書を味わっていただければ幸いである。

3.深読み


さて,一般的な意味での「新刊案内」はいったん一区切りとして,最後に少し異なる角度から読解を試みたい。ここからは,良かれ悪しかれ筆者(北野)による「深読み」の部分があることを断っておく。本稿では「本書の独自性・創造性」を示唆しつつも,「新奇性のある結論ではない」とする,いっけん矛盾するふたつの指摘を行った。これはつまり,結論だけをみていても本書の達成は明視できない,ということである。

本書は,「知識はそもそも社会的なものである」と捉える知識構築の理論に依拠することで,ナビゲイターのみならず「鑑賞者同士で協調的に行うファシリテーションも含めた形で」鑑賞の様態を描写するものであった。その論理展開があまりに自然かつ妥当なものであるため,ややもすると目が滑ってしまうが,実はここに本書の核心/革新があるのではないだろうか。そしてそれは最初から本書のタイトルにも示されているように思えるのだが,多くの読者は当たり障りのない書名として読み飛ばしてはいまいか?

本書は「鑑賞のファシリテーション」と題されている。鑑賞者の,でもなく,ナビゲイターの,でもなければ,作品の,でもない。鑑賞とは,その3者のあいだで生起する現象である。つまり「鑑賞の」という言葉には,非人称的な分かち持たれたファシリテーションが含意されているのではないか。本書では,ナビゲイターが行っていた支援が鑑賞者に「移譲」されていく,という表現がなされている。また,知識構築の素材として導入される美術史的情報を「鑑賞の場に存在しない他者の発話」とみなす本書の議論は,作品の背後にある文脈/いる他者をナビゲイターや鑑賞者へ部分的に「移譲」していくプロセスとしても読むことができる。

鑑賞者・作品・ナビゲイターの3者間の移譲のパスワークとしての鑑賞・対話・ファシリテーション――そこでは主体と客体を固定化して働きかけを「する/される」だけではなく,集団がある状態に「なる」という機序が問われることになるだろう。ファシリテーションを「する/される」から「なる」ファシリテーションへのパスを通すことで開かれる新たな思考の可能性,それこそが「本書の独自性・創造性」である。

ところで,平野氏によるファシリテーションを体験したことがある読者の方は,どれくらいおられるだろうか。平野氏は内田洋行教育総合研究所で勤務する傍ら各地の美術館やアートプロジェクトで,対話型鑑賞ワークショップの実践やそれを通じた人材育成を行ってこられた。様々な機会・場面で,氏のファシリテーションに触れたことがある方も少なからずおられるのではないだろうか。筆者(北野)も,たびたび研究や実践に共同で取り組ませていただいてきた。

実は上述した「なる」ファシリテーションは,氏のワークショップに参加すると,身体的な直感として味わうことができる。平野氏は,このうえなく的確に参加者の発言や意図を整理し,何気ない素振りで端的にパラフレーズして鑑賞の現在地を示してくれる(その背後にはほとんどアクロバットのようなバランス感覚がある)。パスの比喩で言えば,誰もがそのパスを受けたくなるような絶妙なスペースにいつでもボールが転がり込んでくる。

いや,確かに直前にパスを出したのは平野氏かもしれない。しかし,そのときそのスペースと位置関係と球運びをそうならしめたのは,私たちプレイヤーの総体である――そのような感覚が,氏のファシリテーションによって不思議と瞬間的に了解されるのだ。

そうして私たちは,またパスを継ぎ始める。本書は対話型鑑賞研究の基礎文献たりうるものと筆者(北野)は考えるが,基礎文献の存在は学術共同体によってそれこそ非人称的に彫琢されてゆくものである。本書が永く読み継がれることを願い,ここで筆を擱くことにする。

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