「もう学校も先生もいらない!? SNSで外国語をマスターする《冒険家メソッド》」の書評のようなもの

村上先生から献本を頂いたので、僭越ながら書評のようなものを書いてみようと思います。
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実は私が日本語教師をやっていて心の支えにしている、勝手に師匠のように思っている方が2人ほどいるのですが、その一人が何を隠そうこの本の著者、村上先生です。

かれこれこの仕事を16年ぐらい(2018年10月現在で)やっているのですが、転職が珍しくないこの職業では、いろいろな現場を転々とすることが多く、その中には時代遅れで勉強不足の教師が支配的な環境もありました。

そのような時に村上先生の「むらログ」を読んで、どれだけ励まされたか分かりません。もちろんその頃はブログにコメントするなんていうことも怖くてできなかったので、私がブログを拝見していたことは御本人は全くご存知なかったはずです。


村上先生にご献本をいただけたのは、まさにSNSであるFacebookでのつながりがきっかけでした。遠い雲の上にいたような人が、一気に身近な存在になる、これもSNSの効果なのでしょうね。

そんな話はさておき、ご著書についての感想等を書いていこうと思います。
当たり前ですが、完全に私の主観ですし、いろいろと話題が飛んだり、ぐちゃぐちゃすると思いますが、ご容赦ください。また基本的に本の流れに沿って書いていきます。

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目次について
シンプルで余白をたっぷり取った、美しいデザイン。
ビジネスやIT関係の翻訳本の目次のような雰囲気の文体で、さりげなく読者のハードルを下げるような導入部分に好感が持てる。

日本語教育の専門書等はたくさん読んでいるが、初学者であれば目次部分で挫折するほど細かく専門用語が散りばめてある本もある。
ここにはそのような事務的な冷たさや教養への壁はなく、さり気なく冒険へ誘うような先輩としての気遣いが感じられる。

序章 私は如何にして「冒険家」となったか

>P1-3について
かねてから私は著者の「冒険家メソッド」の内容についてはともかく、どうもネーミングが卑近すぎるような気がしていた。著者の唱える素晴らしい考えに対して、「冒険家」というのがどうにも胡散臭く感じ、そのギャップはどうにかならないものかと考えていた。
ここでは久野徳泰の冒険の定義を引き、その共通点から語学学習における冒険家の定義を試みている。これには一定の説得力があり、私のように「冒険家メソッド」というネーミングに違和感を感じていた人にも理解を得られやすい冒頭部分ではないかと思う。

>P4〜12について
ここでは学習者は「わがまま」だという点からスタートし、まさにそのような学習者こそ、冒険家メソッドが向いている、というような内容である。
ここに書かれている、学習者の「わがまま」について、少し原文を載せてみる。

先生は私がすでに知っていることを説明しないでほしいのです。また、私に説明してもどうせ分からないようなことは説明しないでほしいのです。それに私が仕事で使わないような語彙は教えないでほしいのです。だって私は家の中で現地語を使ったりしないのですから。前の授業で勉強したことについて、前の授業に休んだ人が質問しても、先生はそれに答えないでほしいのです。私にとっては時間の無駄ですから。でも私が授業を休んだときは、ちゃんと次の授業でもう一度私のために説明してほしいのです。だって私は勉強していないのですから。私のために、私の好きな生教材を使って授業をしてほしいです。他の誰かが好きな生教材だと私にとって面白いかどうか分からないので、私がリクエストした生教材だけを使ってほしいのです。

ここに書いてあることは単なる「わがまま」ではない。
我々教師(やそれに類する立場の人々)が、いかに学習の個別化に気を使っていないかということを気づかせてくれる文であり、統制された教室で抑圧されてきた、学ぶ人達の本音でもあるだろう。教師(やそれに類する立場の人)は、この声を真摯に受け止める必要があるだろう。
実際にこの部分を親しい同僚に見せたところ、かなり「刺さった」らしい。

>P13〜について
ここでは著者が技術に可能性を見出すようになったきっかけが書かれている。そもそもは「うまく話せない、書けない」というコンプレックスから、技術に可能性を見出したとのこと。その頃は「教師の身体性」ということが重視されていたとのこと。

そして「教師の身体性」が強調されていた時期にカセットテープ等の機械を使用すると、「機械に逃げている」という評価をされたらしい。この辺りの教師の反応は、おそらく今でも変わっていない部分がある。

自分自身の話で言うと、前任校でKeynoteなどのプレゼンテーションソフトを導入しようとした時には、いわゆる「ベテラン」からいろいろな批判を受けた。「人と人のコミュニケーションが減る」とか「停電したらどうするのか」とか笑(メガネも割れる可能性があるから使わないほうがいいんでしょうか。電話やメールでコミュニケーションは増えていると思いますが…)


そして著者は「ネットワークに繋がりさえすれば、大体の問題は誰かが解決してくれている」と述べる。これはまさに「車輪の再発明」をするな、ということであり、狭い世界(それぞれの現場)にとじこもりがちな教員には非常に重要な示唆のように思う。

第1章 理論編:冒険家メソッドは何ではないのか。

この「◯◯は何ではないのか」という問いの立て方は近年よく見られる。何気ない一文にも著者がさまざまな分野の本を読んでいることが表れている。そのようなトレンド?のような文言や問いの立て方、フレーズなどは本書のそこかしこに表れている。

そしてここからが本題の部分。

語学学習について、

従来はこう。
①頭に入れる
②練習する
③使う
これからはこう。
①使う
②練習する
③頭に入れる

と定義する。

そして①について、
まだ何の言語の材料もないのに使うことはできないので、ブラウザ組み込み型辞書やGoogle翻訳などの使用を推奨している。その意味では「とりあえず使ってみる」という感じ。

②③について
Quizlet、ANKIを紹介している。ここでの「頭に入れる」は、本質主義/客観主義の「空っぽの容器(頭)に水(知識)を注ぎ込む」ということではなく、便宜上「入れる」という表現を使ったと思われる。

また、ここもおそらく著者は理解しているだろうが、「現段階」ではこの方法(Quizlet、ANKI等)で、ということだと思う。
ではいずれ何を使うようになるかと言うと、パーソナライズされたアシスタントAIになどが使用されるのではないか。プラットホームが一つになり、入力やクリック、カーソルを動かす手間さえもなく言語の材料提供してくれ、さらには学習の記録と必要な時に復習の問題も出してくれるだろう。
そうなった時には、AIを相棒にして冒険に出る本書の「第二弾」も出るのかもしれない。


ちなみに、そのような時代には言語学習が不要になるのでは?という意見もあるだろうが、私はそれには与しない立場である。
機械を通して流暢な日本語で話す外国人と、正確さを欠きながらも自分の口で日本語を紡ぎ出す人のどちらを好ましく思うだろうか。国際結婚をした2人は愛の言葉も機械を通すのだろうか。もちろん状況や場合、目的によるだろうが、少なくともまだ生身の人間の言語学習は必要である時代が続くように思う。

>P33〜39について
最後に述べる。

>P41〜52について
ここでの要点は「大量生産型の教育はなくなる」ということ。
その根拠として、下記が挙げられている。


・進度が合わない。(落ちこぼれ/浮きこぼれ問題)
・時間の融通が利かない。
・ニーズに合わない場合がある。

これには大いに同意できる。
その上で「冒険家メソッド」に代表されるような学びの「個別化」と、ピアラーニングなどの「協働化」のバランスが必要であると考える。
もし教室のような形態の教育が生き延びる道があるとすれば、その両者のバランスを取る、あるいは両者がうまく機能するような「本拠地」となるような形が望ましいのではないかと思う。これは本書の第四章「教育編:冒険家の育て方」が一つの理想の形のように思われる。

>P53〜64について
ここではソーシャルメディアのリスクについて簡単に触れられている。そしてリスクがあるが、現実世界よりもむしろ安全性が高い世界であることがデータをもとに述べられている。
このあたりのデータは、むしろ学習者よりもソーシャルメディアを全く使用しない教師(やそれに類する立場の人)への反証としても有効に使えるのではないだろうか。

第2章 基礎知識編:ソーシャルメディアについて知る。

>P65〜82について
ここでは様々なソーシャルメディアの基礎知識とその違いについて触れられており、ソーシャルメディアとは何か、どのようなものがあるのか、という基本的な知識が得られる。
但し、書籍という、その時点での固定的な情報を扱うもののため、出版時には明らかになっていなかったGoogle+の廃止には触れられていない。これは仕方がない部分ではあると思う。


この部分で有効なのは、4技能別に有効なソーシャルメディアがまとめられているP81の表だろう。「4技能」という教師にとっては馴染み深い切り口からソーシャルメディアがまとめられており、「冒険」に出る(行かせる)ための入り口がぐっと身近なものになる。

>P83〜91について
実際に「冒険家メソッド」で高い成果を上げた学習者の例が書かれている。このあたりは著者がブログ等で紹介していたので、知ってはいた。これらの学習成果を初めて見せられる人には、まさにパラダイム転換に匹敵するようなものではないかと思う。
そして、大げさではなく「語学教師」と呼ばれる人たちの存在意義をも揺るがす戦慄の9ページになっている。(自分が日本語教師なので、どうも教える側の立場からばかり見てしまいますが…)



>P92〜109について
この部分はChromebookやクラウドの利便性が書かれていますが、控えめに言っても完全に、100%、一点の曇りもなく「激しく同意」の一言です。
自分もChromebookを使っていますし、留学生のクラス授業でもChromebookを導入していますが、ホントに便利です。M●オフ●スとか、重いし、高いし、ホントに要らないです。
普段の授業ではMacを使っていますが、これはKeynoteが素晴らしいからであって、もしGoogleスライドがKeynote並みに美しいものを作れるようになったら、それこそMacも使うのをやめるでしょうね。

第3章 実技編:さあ、冒険へ旅立とう!

>P111〜132について
ここでは冒険家メソッドについての具体的な方法が書かれている。読んでみて思ったのは、第二言語習得理論や学習理論とも非常にマッチした学び方なのではないか、ということ。


例えば…

◉大切なのはコミュニティを見つけること。/ソーシャルメディアを利用しない人は単なる独習者であって冒険家ではない
=人は人の関係性の中でしか学べない。社会構成主義。

◉初級の前半は主教材を利用したほうが無難である。
=言語知識がインプットへの気付きや、インテイクの促進を高める。


◉この段階の特に文法の学習で重要なのが「スルー」、つまり無視する力です。(中略)螺旋的に階段を登っていくというイメージです。(中略)なにやら現在完了とか過去完了とかいうものがあって、haveとか続くらしい」というぐらいの大雑把な、時には間違いを含んだ理解でいいのです。
=曖昧さに対する許容性が高いほうが言語適性が高い。

などです。これらは既存の理論を見事に「冒険家メソッド」に当てはめているように思う。

そしてこの部分で目からウロコだったのは、映画などのコンテンツは「学習の定点観測」として使えるということ。

①映画を見る
 →大部分が分からない。
②冒険家メソッドで学習する。
③また同じ映画を見る。
 →少し分かる部分が増えた!
④冒険家メソッドで勉強する。
⑤また同じ映画を見る。
 →また分かる部分が増えてるぞ!俺、進んでるぞ!

このように自分のレベルを認識するのに、自分の好きな映画などを使う、という方法はとても効果的なように思うし、他者に説明するときも分かりやすい。
例えば、レベル判定・把握といえば紙のテスト、という発想は誰しもあるだろうが、日本語教師以外の人に「僕はN2レベルなんだ」と言っても通じないだろうし、ましてやCan-do statementsの全体の尺度を伝えてもキョトンとされるだけだろう。
でも「名探偵コナンは大体分かるよ」とか「(有名な邦画)ぐらいの日本語は簡単に分かる」と言えば、一般の日本人(やその言語の母語話者)には伝わりやすいように思う。

>P133〜146について
ここでは暗記用のアプリ「Anki」とGoogle翻訳と検索を使った学習方法が紹介されている。
Ankiについては実際に使ってみたこともあるが、初めて見るとややインターフェイスに混乱するので、画像等を用いた解説があったほうが親切だったかもしれない。

>P147〜178について
ここで述べられているのは、主に以下の項目

・SNS上でのコミュニティでの振る舞い方、メンバーとの付き合い方。
・段階を踏んだコミュニティへの参加。
・チャットのメリット
・Googleハングアウトの使い方
・SNSでのブロックについて

ここでは最早著者は日本語教育の専門家ではなく、いい意味で「パソコンにくわしいおっさん」である。特に「ブロック」に関しては、ある程度SNS等に慣れている人でもためらわれる部分だろうが、おっさんが「そんなのはブロックしちゃえばいいんだよ。あなたの世界が楽しいことが第一なのだから。それはあなたの権利なんだよ」と言ってくれているような感じである。

第4章 教育編:冒険家の育て方

>P179〜190
ここで述べられていることを要約すると、

・今や学習のリソースは無限
・社会は多様化、高度化、高速化し続けている。

◉もし教師としての立場を続けるなら、自分の学びをマネジメントし、成長し続ける人材を育成する必要がある。そこにこそ教師の役目がある。

ではないかと思う。


この辺りの主張はブログ(むらログ)等で、著者がウェブ進化論や学習の高速道路を引き合いにしながらも、何度も主張してきたことだ。まさにここが今後の教育のキモだと私自身も認識しているが、そのような危機感を持っている人は、(ネット空間でない)現実では、稀のように思う。多くの教師のビリーフは、未だに「暗記、オーディオリンガル、積み上げ」なのだ。もし自分がそのような教育に加担したくないのなら、目の前の実践を変え、それを(ネット空間でない)現実で広げていくしかない、というメッセージのようにも受け取れる。

>P184〜190
ここでは具体的に今後の教師の役割として重要なものが挙げられている。

◉教えないこと
◉環境(コミュニティ)を作る。
◉動機づけ
◉共感・傾聴
◉学習方法とリソースの提案
◉質問することによって気づかせる

「教える」という行為が完全になくなるわけではないが、これらのスキルは非常に重要であることに完全に同意する。しかし現在でも「教師の身体性」や「いかに上手に教えられるか」を教師の能力とする現場は多い。

その一つの現れが、日本語学校での新人採用の時に行われる「模擬授業」である。多くの場合、面接する側の職員が学習者役となり、応募者が模擬授業をする。声を張り上げ、明るく、笑顔で「て形」の作り方を教え、テンポよくドリルができることを見せる。

それで何の能力が測れるのだろうか。学習者との関わり方は分からないし、上記に挙げたような傾聴などの能力はほぼ判断できないだろう。

以前からそう思っていたので、ある時期から新しい講師を採用する時の「模擬授業」はきっぱりやめた。でも、それによっておかしな教師を採用したことはあまりないと思う。むしろ模擬授業で輝いている教師は、「教師主導の教室」を作ってしまうように思う。

私が理想としているのは、「感謝されない教師」である。
学習者に「自分の力で上手になったと思わせる教師」だ。
「先生のおかげで上手になりました」という学習者からの感謝の言葉に「まだ教師に依存させてしまっているのか」と悩む人でありたいし、そのような教師と一緒に働きたいと思う。


>P191以降

冒険家メソッドにおける具体的なコースデザイン等が紹介されている。
ここは現役の語学教師は必ず読んだほうがいい。
完全に冒険家メソッドを取り入れることが難しくても、有用なリソースの紹介があったり、部分的に取り入れられそうな活動などが紹介されている。

ーーーーここまでが書評(のようなもの)ーーーー

以上、とりとめもなく書いてしまいましたが、素晴らしい本であることは間違いありません。価格も1,600円に抑えられています。
読みやすいですが、時間がない人はキーワードを追うだけでもいいかと。

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そして、最後に少し個人的なことについて書こうと思います。


P35〜36の部分にかけて、村上先生が師匠と仰ぐ梅田望夫さんが村上先生のブログをブックマークし、そこに「learning2.0」というタグを付けてくれた、というエピソードがあります。そこで村上先生は梅田さんから、

●君のブログには記録しておくだけの価値がある。
●君の考え方は「learning2.0」という枠組みで捉えることができる。
●その枠組に関する情報としては、他にこんな記事があるよ。

というメッセージを受け取ったそうです。
自分が師匠と仰ぐ人から認められる経験は、その人の人生の中でも、かなり重要で、忘れがたい経験になるのではないでしょうか。

先日、私も同じ体験をしました。


村上先生がツイッターで作っているリスト「LeadingEducators」に私を登録してくださったのです。


そのリストの説明には、こうありました。

紹介用のリスト。教育に関する専門性が高く、個人的なツイートが少ない人を中心に構成してあります。

村上先生にとっては何の気なしにやったことなのでしょうが、
私にとってはとても大きな出来事でした。

そして私は村上先生が梅田さんから受け取ったのと同じように、以下のようなメッセージを受け取り(勝手に解釈し)ました。

●君がやっていることは、間違っていないよ。
●君はよく勉強しているね。
●君と同じように頑張っている人が他にもいるよ。

FacebookやTwitterを通じて、いい、面白い、と自分が思っている自分の実践をたまにシェアしているのですが、それを評価してくださったのかな、と思います。


16年前はまさかこんなことになるとは思っていませんでした。
これもこの時代の、ソーシャルメディアの恩恵なんでしょうね。

いつか、私も誰かに同じことができるように、成長し続けていきたいと思います。

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