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理解とNot理解のはざまを愛す

 いつも気持ちが沈んでいることで有名なわたしだが、最近はいつもよりもすこし深いところまで沈んでいた。

 さいきん本を買った。同居人の運転する車に揺られて隣県の美術館に訪れた帰り道(わたしは芸術のことは今ひとつわからないけれど美術館めぐりがすき)、近くに大好きな洋服セレクトショップの系列店があることを思い出し、だれかわからないおじさんと双子の子どもが印刷されたプリントTを買った。そしてその後、同じビルに書店が入っていることに気づいた。

 普段、書籍は電子派だ。紙か電子か、を答えるとき、とくに物書きの人は紙のほうがすき、と答える人が多い気がするが(わたし調べ)、わたしは専ら電子派だ。ふつうに置く場所に困るからだ。なんとも消極的な理由。だからわたしは基本、紙の本を買わない。

 だがその日は美術館でモネを見ることができて気分がるんるんしていた。せっかくここまで来たし、未来の自分へのお土産でもかっていこうか、という楽観的なきぶんになって1冊、本を手に取った。

 買ったのは、嘘にまつわるエッセイ・小説・漫画が収録されている文芸誌だ。この巻は「悪」特集。ほかにもいろいろ惹かれる特集の巻号もあったけれど、わたしの当時の心象にはこの巻が馴染む気がしていた。

少年アヤさんのエッセイがすごくすきだった

 さっきも言ったが、わたしは芸術にうとい。人間の悪意に関する感受性ばかりが鋭く磨かれているくせに、そうじゃない分野、たとえば普段歩く道に新しい花が咲いていたとか、今日は月が大きく見える日だから見てみようとか、夕焼けがきれいだ、とか、そういう方向性への感性がすごく鈍い。「きょうは晴れたし、風もなくて穏やかだなあ」くらいが感受性の限界なのだ。

 詩みたいなホワホワした表現も苦手だ。たぶん普段論文とか教科書を読むときの癖で、「結局これって何がいいたいの? ん?」と要約しながら、あくまでテキストベースで考えてしまう癖があるからだ。生まれた感情の解釈をこちらの想像力に委ねられると身動きが取れなくなってしまう。

 各々の感性によって解釈が変わる文芸は自分の想像力の陳腐さを突きつけられていやになる。わたしはすごく傲慢だ。

 だが今回購入した文芸誌「USO」はすごくちょうどいいバランスだった。ちょうど理解とNot理解の半分のところで、じょうずに想像力を使いながら楽しむことができた、と思う。

 それと同時に、読み終わったあと、ずどん、と気分が沈んだ。最後に読んだ特別寄稿のせいかもしれなかった。それはあまりにも良すぎる文章だったけれど、呼吸に馴染みすぎる文章は毒になるなと思った。

 あぶなかったので、半目でさらりと読み流した。きちんと読んでいたらきっとわんわん泣いていたに違いない。創作物で涙を流すにはエネルギーがいる。そのときのわたしには体力がなかった。

 とはいえ、ひさしぶりに紙の本をめくる体験はそこそこ楽しめた。この文芸誌を購読し続けるかどうかはわからないけれど、ふらり入った書店で何気なく手に取った本が感情を突き動かすほどのパワーを持っていたことに驚きを隠せない8月の夜中、これを書くことで、いつもより沈んでいる気分は幾分かましになりそうだ。

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