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ドイツ デュッセルドルフに在住経験あり。興味があるのはブロックチェーン技術・哲学・マー…

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ドイツ デュッセルドルフに在住経験あり。興味があるのはブロックチェーン技術・哲学・マーケティング・漫画という感じです。まだnoteの使い方わかってないのでとりあえずアウトプットの場所と認識しておきます。

最近の記事

私の幸福偏差値は50です。

古びた校舎の中で私は黙々とページを捲る。 先人が残した知恵と知識をひたすら脳に記憶させていく作業は、何を隠そう "偏差値"という数値を上げるためであった。 自分はどれだけ頭が良いのだろうか こんな疑問が浮かんでくる。人と比べた時に自分はどれほど頭が良いのか、どれほど勉強ができるようになったのか疑問に思う。 その一つの回答が偏差値という数値だ。 最新のiPhoneを片手にひたすらインスタグラムのフィードをスクロールする。 他人の華やかな日常の写真や動画を眺めていく作業の

    • スマホ依存と功利主義

      はじめに 194gしかないその電子機器の存在は、気付かないうちに非常に大きな存在になっていた。 朝、目が覚めて最初に手に取り、夜寝る前に最後まで眺めているそれはいつしか意思とは関係なく常に自分の注意を吸い取り続けた。 YouTubeで面白い動画を見たと思ったら、Twitterを覗いてみたり、TikTokを見たと思ったらInstagramのフィードを更新する。これらは現代の人なら特別異常な習慣ではないはずだ。事実、私もそちら側だ。 この習慣は幸せをもたらしているのか?

      • 再生

        俺は、新しい観光SNSを作りたいと思ってる。それがFOLLOWだ。

        日本はオランダの起業家の考え方から多くを学ばなければいけない時代になっている。 しかしその現状は日本のメディアは語らない。だから僕のチャンネルでオランダとはどう進んでいるのか。隠されている先進国オランダをビジネスの側面から、オランダでビジネスを学び学生が共有していくチャンネルを作りました。 ぜひみてください!

        • サーキュラーエコノミーを実例と知る。

          僕は現在オランダに住んでいる。 そしてオランダで今(ちょっと前から)バズワードになっているのがサーキュラーエコノミーというものであり、日本語に訳すと循環型経済である。 この記事ではサーキュラーエコノミーとは何か、なぜオランダで進んでいると言われているのかについて見ていこうと思う。 サーキュラーエコノミーとは先述した通りサーキュラーエコノミーとは循環型経済という日本語である。エコノミーと言うように一種の経済としての形のありかた・考え方を示すものである。 サーキュラーエコ

        私の幸福偏差値は50です。

        • スマホ依存と功利主義

        • 俺は、新しい観光SNSを作りたいと思ってる。それがFOLLOWだ。

          再生
        • サーキュラーエコノミーを実例と知る。

          日本とヨーロッパの24h営業について考える

          Noteは自分の考えを出す場所と聞いたので、やってみようかな 僕はドイツとオランダに住んでいた経験がある。ドイツ・オランダなどのヨーロッパではコンビニのように24時間営業しているお店はない。空港などの場所でも24時間常に開いている場所というのはレアである。(お酒が飲める場所などが夜だけやっていたりすることはある) そしてそんな中、2chのひろゆきさんの「コンビニでの消費量の総数は24h営業でも、24時間営業していなくてもそんなに変動はない。しかし働き手の給料は長く働く分、

          日本とヨーロッパの24h営業について考える

          高校生が哲学書を40冊読んでわかった、哲学を学んでよかったこと

          「死ぬってなんだろう」とか「人生の目的は?」のようないわゆる哲学的問いというのは誰しもが持った経験があるのではないか。そういう疑問を持った時に、是非数冊は哲学書を読んで欲しい。なぜなら、哲学とはそのようなふとした疑問に人生を費やした人たちが作り上げた学問であるからだ。 また同時に実用性を考えた時に、哲学はもっとも実用からかけ離れていると考えられることもある。しかし、私は哲学は人生に必須の科目であると考える。「哲学はこのように使える」という実用性とは違うが、「哲学を学ぶことに

          高校生が哲学書を40冊読んでわかった、哲学を学んでよかったこと

          古文漢文の勉強の意味を見出せないままでいる

          個人的に勉強という言葉自体は嫌いではないが、小学校・中学校・高校と進むにつれて、この授業を受けるくらいなら違う勉強をやったほうが有効な時間の使い方なのではと考えることが増えるようになったと思う。今回は「古文と漢文は必要ない」という主張を述べていきたい。 「古文と漢文は必要ない」というのは高校の授業を受けてきて感じたことだ。勉強とは現代における有用性を追求し続けるものであるべきということを考えていることではないが、それでも古文漢文は中学高校の勉強として取り入れるべきではないと

          古文漢文の勉強の意味を見出せないままでいる