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「私が地獄だ」

「自分は地獄に送られたのか」

「私の行く場所が地獄なのだ」

クリストファー・マーロウの有名な戯曲の中で、悪魔のメフィストフェレスは、主人公のフォースタス博士にそう答える。

「24年間の全能と悦楽を与える代わりに、そのあと博士の魂を私の好きにさせて欲しい」

悪魔は交換条件の提案をする。
博士は考えた末、悪魔の契約書に、自分の血でサインした。

悪魔は飽いていた。
地獄に落ちて当然の人間を地獄に引き摺り落とすことに。

もっと大きな享楽を欲しがった。
善良な人間に、自らの意思によって永遠の責め苦を負わせることだ。


マーロウの戯曲に出てくるこの悪魔は、別の世界線の自分の姿のようだ。
私と出会い関係を紡ぐことは、相手にとって幸運なことでもあり、不運なことでもあると思う。
希望は常に絶望をはらむ。受容し同時に表現できることが、成熟、完成の証ともいえる。
私は希望であると同時に、絶望でもある。いや、希望であるためには、絶望でなくてはならない。

最近、「自分が貴方を気に入っているから、他に男が居てもいい」と言われた。自信のある男は純粋に好きだ。支配や束縛をしなくとも、自分に特権性があることを熟知しているから。

相対して、自信のない弱い男がいる。いつも怯えている。彼を救うことを通して、私は自分自身を救っている。だから私は彼を手放さない。

村上龍のエッセイ集のタイトルに、
「すべての男は消耗品である」
というものがある。(すごく面白い!)

年齢を重ねるにつれて、これほど男というものを捉えた言葉は無いなと益々思う。
女に消耗品という言葉は似合わない。女は、木や花と同じ、生命そのものだ。存在する意味を問われない。
しかし男は、常に本能から問われている。お前の存在する意味は何か?と。だから、男に存在する意味を与えるモノは、その男にとって希望にも絶望にもなる。
その「モノ」が人だとして、その関係を紡ぐことは、幸福だろうか?
不幸だろうか?


思えば私は、子どもの頃からフランス文学の「マノン・レスコー」のようなファム・ファタルに強く自己投影をしてしまう節があった。
母のようであり、娘のようでもある。その演技力と掴めなさに惚れ惚れして、私にとって男の消費とは、彼女たちに近づくための手段なのかもしれない。

自分のために相手を消費する。
私の欲しいものは、この方法で手に入るのか、と、ふと迷いが出る。
相手に傷を付けなければ、私が欲しがる相手の魂は手に入らない。でも傷付ける過程で、私も傷付いている。
それが愛するということなのかな。


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