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アートって何なの?


アートとは何だろうか。


Wikipediaではこう記されている。

芸術またはアートとは、表現者あるいは表現物と、鑑賞者が相互に作用し合うことなどで、精神的・感覚的な変動を得ようとする活動を表す。

Wikipedia

また、とある記事では

鑑賞する人が、物から発信された情報を受け取って 〜(中略)〜 何らかの感情が湧きあがった時、その物と鑑賞者との関係性を「アート」と呼びます。

https://www.koukouseishinbun.jp/articles/-/6119

と定義されている。


つまり、ある対象に対して、精神的、感覚的な変化を得た時、その対象はアートというらしい。


アートに正解はないと言われることがあるが、この定義から考えれば腑に落ちる。

全ての人にはその人に刺さる何かがあり、それはその人にとってアートなのだろう。


おそらく普遍的な価値を持つであろう有名な絵画、彫刻、音楽などの芸術作品は、多くの人に感覚的、精神的な変化をもたらしうるという点で「アート」として評価されているのだろう。



ただ、最近、僕はこの「アート」に対して違和感というか気持ち悪さを感じることがある。


あたかもこの感覚的、精神的変化があらゆる人々にとって一様であるかのように発信することに対してだ。

言い換えるなら、他人から「これはアートだ」と思われることを期待して、ある対象をアートとして発信することだ。


「自分はアートというものはわからないけど多分これはアートなんだろうなぁ」という人の感情を期待して、何かをアートとして発信していると感じる時がある。


捻くれた考え方かもしれないが一旦聞いてほしい。


SNSでインスタ映えするような風景、古い時代を感じる店やグルメ、古着、美術館。


ざっと適当に上げてみたが、これらは、いわゆるアートとして認識されていることが多い対象のうちの一つだと思う。


これらを発信する人にも様々な人がいるだろう。

心の底から自分の中で変化を感じ、その対象をアートと捉え、同じような体験を他の人にもしてほしいと願って発信する人はいるだろう。


だが、本当にそれだけなのだろうか。

SNS社会の発達により、人間の承認欲求の増大は留まるところを知らない。

そんな中で、自分はセンスがあると思われたい、この対象は他者がアートだと認識するだろう、その他者が仮に芸術に疎くても、これがアートなんだろうなぁと感じてくれるだろう、と想定する人間は少なからずいるはずだ。

自分は「アート」がわかる個人だと他者から認識されたい、それによって承認されたいという欲求がないはずがないと思うのは自分だけだろうか。



有名な絵画などの芸術作品は、確かに一般的に多く?のひとに作用して、個人の中で変化をもたらすアート体験を引き起こすのかもしれない。


しかしながら、正直、自分には現代アートや彫刻の何がすごいのかがよくわからないし、それによってなにか精神的、感覚的な変化が起こることはあまりない。

だだし、それをそういう変化が起こるもの、つまり、アートとして発信する人や組織を見た時に、「ああ、これはアートなんだろう」と思うことはある。


そのような時に、その発信者に対してすごいと思うことが起こりうるのだろう。(個人的にはまったく起こらないが。)

そしてその他者からの感情を自分の欲求を満たすツールにしている人間は少なからずいると考えている。


この一連の流れに対して気持ち悪さを感じるというのが最近の僕の意見だ。


そもそも、冒頭に書いたように、「アート」というのはその人自身が何が感覚的、精神的変化を感じたかというのが重要な基準なはずだ。

各々が感じる「アート」を楽しめばいいし、好きに発信すればいい。


ただ、意図していなかったとしても、承認欲求が透けると捉えられる可能性がある点で、現代社会においてアートとその発信という行為は相性が悪いのかもしれないと感じた。(もちろんただ僕が捻くれているかもしれないが)


そのように自分が発信するアートが承認されるかどうかというのはその時その時の時代や環境に左右されるだろう。


ところで、中世、近世、近代において、芸術家は良い作品を発信して有名になり、富裕層からのスポンサーを経て、芸術活動に勤しんでいた事実を踏まえると、なんとも面白い。

現代において、かつて芸術作品の価値を広めたり、創作活動の一助になっていた発信活動が逆に芸術作品のアートとしての価値を貶めている可能性があるかもしれないというのは皮肉でしかないと感じるのは僕だけだろうか。

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