「努力」ってなんだろう
「努力は必ず報われる」
「努力することは大切だ」
「努力を努力と思わない人が1番強い」
生まれてから今まで散々努力ということに関して色々なことを言われてきたし、聞かされてきたという人は多い。
名言的なものも腐るほど存在し、聞き飽きたくらいだ。
今回はそんな「努力」について考えていこうと思う。
最初に上げたフレーズなどを考える前に、まずは「努力」という言葉自体について考えてみたい。
実はずっと前から違和感を感じていたことがある。
「努力」は見ての通り「努」と「力」で構成されている熟語だ。
「力」は能力、なにかに取り組む、頑張ることを示していると思う(肉体的にも精神的にも)。
では「努」のほうはどうだろうか。
少し引っかかることがある。
そう、「奴」という字が入っているのだ。
この字から連想することといえば「奴隷」という言葉だろう。
「努力」という言葉はキラキラした雰囲気を纏った汚れのない感じがするが、何故かそれとは正反対の感覚を引き起こす「奴」という文字が入っている。
「奴」は、かつては身分や地位が低かった女性、「女」と手を表す「又」でできた漢字である。
人間ではあるが身分がない者、召使いとして使われる者、そんな意味がある。
そのような者たちが、肉体労働をさせられる、こき使われる、文字的に「努力」とはそのような意味になると想像できる。
前置きはこれくらいにして、ここでこれを踏まえて「努力」について考えていきたい。
「あれだけ努力したのになんで報われないんだ」
そう思ったことが1度くらいあるはずだ。
「努力は報われる」とかよく言われるが、これに関して僕は少し違う考えを持っている。
「努力によって必ずしも期待した成果が出るとは限らないが、報われないことはない」
と考えている。
結果にこだわることは全く悪いことではないが、その一点にこだわりすぎるがあまり、達成できないと壊れてしまったり、次の努力が質の悪いものになってしまったりするかもしれない。
こうなってしまうとそれは「奴」のイメージ、「負の努力」になってしまうのではないか。
他にも、他人からやらされる、あるいは言われた通りに何も考えずした努力に関しても同じことが言えると思う。
広い視野を持って、雑念を排除し、やらされるのではなく、自分で考え抜いて行う努力こそが「正の努力」だと思う、
「負の努力」を続けていればおそらく、「努力は必ずしも期待した成果が出るとは限らないし、必ずしも報われるとも限らない」になってしまうだろう。
と言うふうに捉えると、おそらく何人かはスマートにやるのが最適解のように考えるかもしれないが、僕はそこにも疑問を感じる。
もちろん効率とかそういうことは大事だが、そもそもかなりの人が絶対量そのものが足りていないと感じる。(自分も含めて。)
「効率性」なんて言葉を免罪符にして、うまくきついことから逃げたりしてしまうのが人間なのだと思う。
その時の努力は「負の努力」になっているだろう。
そこから容易く逃げずに向き合える人がする努力もまた「正の努力」と言えるのかもしれない。
その意味で「努力を努力と思わない人は強い」と言われているのだろう。
言い換えるなら「正の努力をこなし続けることができる人間は強い」だろう。
こうして考えてみると、普段想像する努力の形は「正の努力」だが、実際に行なっているのが「負の努力」なんてことは結構ありそうだ。
気付いたら奴隷のようにただ作業をこなすだけ、成果はもちろんもらえない、そんな状態にならないようにしていきたい。
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