宇野常寛『母性のディストピア』

 デビュー作「ゼロ年代の想像力」を書店で見かけたとき、それがまさかのハヤカワ文庫より出版されていることになにより驚いた。本書の著者である評論家・宇野常寛は最近になって新刊『遅いインターネット』を発表した。そうしたかなり「遅い」タイミングで本書を読了したこととなった。理由としては、単純にかなり分厚かったこと。そして、いち「おたく」を標榜する自分にとっては「本気」で読まねばならない内容であることが容易に想像できたことが挙げられる。では、以下簡単に読了まとめ。

1、「母性のディストピア」とは / 日本の現状

「何もかもが茶番と化し、世界の、時代の全てに置いていかれているこの国で、現実について語る価値がどこにあるというのだろうか。いま、この国にアニメ以上に語る価値のあるものがどこにあるのだろうか」

 冒頭、筆者の叫びにも似た言葉が投げつけられる。
 「この国から創造力の必要な仕事はなくなり、言論は空虚な現実に蓋をするだけのものになった」
 著者はそんな中で戦い続けたが、ここで一度、そんな現実ではなく、虚構の話をしようという。なぜなら、フィクションを語る方が、現実を語るより価値があるからだそうだ。現実を解明するためにも、まずは、虚構を突き詰める「創造力の必要な仕事」をこれからはじめる。そんな、ある種の開会宣言であり、現実に対する宣戦布告から本書は始まる。

「戦後民主主義の精神が『徹底して私(文学)的であることが、結果的に公(政治)的である』という逆説によって成り立っていることに起因することを考えれば、三島もその自覚より深いレベルで『戦後』の文学者だったと言えるだろう」

「近代とはそもそも公的な空間という舞台に立ち市民という役を演じている演劇に他ならない」

「どんな真剣も遊戯に終るというのではなく、遊戯以外に真剣などはあり得ないようなきわめて文学的な空間の中で、文学の非文学化が無気力にひろがっているというのが今の私たちの生きている現実なのである」(西尾幹二)

「人間は社会に否応なく接続されてしまう存在でもある。私たちは自動的に『父』にされてしまう。そのとき、私たちは多かれ少なかれ権力性を帯び、それを行使する。民主主義を、資本主義を生きるとは、社会的動物としての人間を生きるとは、不可避に『父』として機能することだ。江藤厚的であれ、村上春樹的であれ、私たちは父になれないのだと宣言することは『父』であることを深く、柔軟にうけとめることにはつながらず、むしろその責任を被差別階級に転嫁しているだけなのではないか。それが村上春樹論としての側面を強く持つ前著『リトル・ピープルの時代』での問題提起だった」

 学生運動時代の三島由紀夫は「政治と文学」が成立し得なくなった中で、徹底して虚構をつきつめ、最後には破滅的な終わりを迎える。近代の江藤淳と村上春樹は、現代の政治・社会にもつべき「父」(あえて家父長制的ステロタイプに則った表現としている)的役割について、異なる意見を提示しているが、そのいずれもが問題を誠実に解決するに至るものではなく、自身の責任を被差別階級に押し付ける結論を出しているのではないか。
 故に、この社会は「母」を必要とした。本来、「父」が社会契約上で機能を補うべく必要とするものとして妻という単語を使うべきだが、そうではなく「母」を求めてしまっているのだ。この部分を本書では『母性のディストピア』と表現している。

「いまこの国の、戦後という耐用年数の過ぎて久しい回路の枠組みをめぐる言説は、その立場にかかわらずほぼ思考するためではなく、思考することを拒否するために存在していることがわかるだろう」

 右派も左派も、そうでない人も、思考をしない「安寧」に終始している。インターネットは議論の場ではなく、長年テレビのワイドショーがやってきた低俗な「生贄吊し上げ会」を、個人レベルで開く場所と成り下がった。インターネットが下劣なテレビを批判するものではなく、その欺瞞を補完するものになってしまったのだ。
 アメリカ作品に登場する「ロボット」はあくまで知能を持つのに対し、日本における「ロボット」は父より与えられた機械の身体=成熟の仮想装置として支持されていた。
 ネットワーク環境の整った世界中の人々の余暇は、20世紀終わりに使われていた雑誌やテレビではなく、ソーシャルメディアやチャット、無料通話によって消費されるようになった。生活世界における虚構と現実のパワーバランスが変わったのだ。

2、宮崎駿

 押井守は宮崎駿の記号的リアリズム(死なない身体)と自然主義的リアリズム(死にゆく身体)を往復する演出を(それが卓越した演出が可能にし、説得力を持たせているとしながらも)批判した。この演出により、物語が批判力を失うと考えたからだ。(例:銃で打てば普通に死ぬ人間が、ご都合主義的に超高高度から落下しても気合でなんとかなる)

「公と私、政治と文学の乖離を女性性の収奪と依存で埋め合わせる、戦後日本の文化的空間における基本的な男性ナルシズムの記述法」

 宮崎駿は『となりのトトロ』で描いたような美化された日本の自然風景への傾倒を見せつつも、戦争(零戦)から離れることはできない。
 しかし、宮崎駿の描く男性は一人で飛ぶことはできない。『天空の城ラピュタ』のパズーも、『カリオストロの城』のルパンもだ。『紅の豚』のポルコは人間ならざるものに身をとしてやっと飛ぶことが許された。

3、富野由悠季

「アニメーションの中で語られるシャアをはじめとする悪役たちの思想は、富野の現実の世界に対する思想そのものだった」

 ファーストで希望として描かれた「ニュータイプ」による完全な誤解なき理解は、続編Zの時点で既に(富野自身の手によって)否定されている。

「人間は媒介なく直接つながりすぎると、負の連鎖しか生まないーーこれは貨幣と情報のネットワークが世界をつなげすぎてしまった時代に生きる私たちにとっては、圧倒的にリアリティのある世界観のはずだ」

 富野はニュータイプに諦めつつも、ニュータイプの呪縛から逃れることはできない。

4、押井守

 押井守はモラルがために、高橋留美子的な「母性のディストピア」=理想郷のために他者を排除・隷属させる世界を否定した。押井の美学とは、犬と人形という非人間的な存在で世界を満たし、モラリスティックに自閉する事だった。
 映像の世紀の終焉に気付き、その到達点までたどり着いた押井。しかし、限界に自覚的だった押井の作品は、いや、自覚的だったからこそ、むけるべき銃口を「母」へ舵を切ることはできなかった。ネットワークの世紀の未来へは向けられなかった。

5、4人目の作家 / 胎内の先

 3人の映像の世紀を代表する作家は「母性のディストピア」という袋小路に陥った。この国の戦後を生きた男たちは「母」の胎内に閉じこもったまま、「父」になる夢を見続けた。肥大した母性と矮小な結託が生んだ「母性のディストピア」という呪縛に囚われた。
 そして、本来であれば映像の世紀の終焉とともに、社会は「母性のディストピア」からも脱却せねばならない。しかし、現実はそうなっていない。見たいものを見、テレビのデッドコピーを繰り返すネット文化から抜け出せないでいる。「母性のディストピア」を超克する為には、新しくネットワークの世紀に対応した形で政治と文学を接続せねばならない。
 Google、Ingress、ポケモンGOは一つの答えでもある。それは、虚構が現実に敗北した事を決定的に示した。Googleは「大きな物語」ではなく「大きなゲーム」で世界と個人、公と私、政治と文学の接続を試みた。
 批判力を失いつつあった戦後アニメーション最後の逆襲。『シン・ゴジラ』を生み出した庵野秀明を4人目の作家として取り上げる。庵野がここで行った事は、戦後を支配した呪縛に対する挑戦、ファンタジーで培った思想による現実への介入だ。この作品は右からも左からも、批判擁護飛び交った。それほどバランスの取れた作品であった。
 本作への左翼的批判には例えば「政治家や官僚を主役に置き、その活躍を描く事自体が弱者への視線を欠いたものだ」といった類の紋切り型な論理ショートカットと偏狭なクレームがあった。こういったものがわが国の批判的知性を劣化させている、こういう稚拙な難癖をつける左翼メンタリティがある。究極的にこの国左翼は、適切な批判力を持った現実的左翼主義の存在を受け入れたくないのだ。現実と乖離することで、理想が得られるという戦後に生まれた精神性。戦争をモニターの向こうに押し込め、9条こそが国の安全保障を担うと主張し続ける。
 この映画で突きつけられるのは、30年前から何一つ進化していないこの国だ。まずはその現実を受け入れることから始めなければならない。「もはや『ゴジラ』と共生していくしかない」のだ。
 情報=虚構が現実に敗北している現代。その中で庵野秀明は常に終わりゆく戦後サブカルチャー(映像の世紀)の批評的継承者に敢えてとどまっているようにも思う。
 では、新たな形とは何か。
 現在を覆う一つの答え。フィクションの世界でいえば、BLだ。百合もそうだが、例えば『けいおん!』をはじめとする永遠に続く日常系(アイマスやラブライブなども)の中では徹底して男の臭いが消されている。また、近代の「ガンダム」シリーズも女性視聴者を念頭に置いたボーイズラブを彩る作品(W、SEED、OO、オルフェンズなど)である。それらの背景などの舞台装置は全てイメージを記号的に与え出す劇伴に過ぎない。君の名はの隕石=震災のように、安全なところから眺める要素でしかない。
 しかし、この一つの答えが政治と文学を接続し得ない事は既に自明。目を背けることのみによって得ている安寧の幻想だ。では、それを乗り越える為にはどうすればいいのか。
 この肥大した「母性のディストピア」を破壊する為には、私たちの「父」への欲望を他の形に置き換え、新たな成熟の形を作ることが必要だ。政治と文学ではなく、市場とゲームを結ぶ新しい蝶番を獲得すること。『シン・ゴジラ』で提示された理想論を成すこと。スクラップアンドビルドを達する事。終わらない戦後を看破する想像力を伴った仕事。理想を現実とするしかないのだ。かつて富野由悠季がさした本来の「ニュータイプ」を今こそ信じるべきなのではないか。
 想像力のいらない仕事(最適化)ではなく、想像力の必要な仕事(再構築)をしよう。

6、あとがきより引用

「〜(前略)〜富野由悠季にとっての小説『機動戦士ガンダム閃光のハサウェイ』の重要性も当然認識している。しかし、人間に与えられた時間は短く、出版物という形式の限界もある。〜(中略)〜最後に、富野由悠季は私にとって個人的にもっとも重要な作家である。〜(中略)〜そして改めて、富野監督には新作を期待したい。私たちがそうであるように、あなたにはまだやるべきことがある。」

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