【小説】西海道中膝栗毛<其ノ四>
十四
将軍の前に男が一人、後ろ手に縄をかけられて座っている。昨夜、長嵜から到着した廻船で運ばれてきた杉浦党の頭領である。
「お前の名は何と申す?」
男は黙したままである。
「まあよかろう」
将軍はそう言うと、手前の盆から訴状を取り上げ、男の前へ差し出した。両手を縛られた男の代わりに脇に控えていた誠之助が訴状を開く。
「それで足らねば、他にもあるぞ」
将軍はそう言うと、別の盆を持って来させた。
「見るか?」
と聞いたが、男は訴状を睨みつけたまま口を一文字に結んでいる。
今回男が捕らえられたのは、長嵜での蓋島家押入り事件のためではなく、本府で発生した別の事件のためであった。将軍によれば、事件に関わる人物を杉浦党が匿っているという報告が入ったとかいう話である。
「どうやら人を見誤ったようだな。だが、もしお前が誠の義賊ならば……」
そう言って、将軍は男の方を見た。相変わらず男は黙っている。
「ところで、先の海賊取締令*で消滅したはずの和寇が、なぜか最近長嵜の海域を荒らしておると聞く。蓋島家が私費で哨戒船を出しているそうだが、できれば負担をかけさせたくない。たれか代わってこれを成敗してくれる者がおるとよいのじゃが……」
将軍は扇子で顎を掻きながら男を見る。男は将軍の意図を図りかねてしばらく口を閉じていたが、ついに合点が入ったと見え、目でうなずいてみせた。先ほどまでの敵意は消えている。
「牢へ入れておけ」
将軍が命じると、男は善次郎らに連れられて出ていった。
その翌日、男が脱獄するという騒ぎが起きた。城内ではどうもこれは右川五右衛門の仕業ではないかという噂が立ったが、真相はついぞわからずじまいであった。
ところが、男が牢破りをしたという報告を善次郎が持ってくると、
「そうか。放っておけ。どのみち今頃は海の上であろう」
と、将軍はいかにも興味がなさそうに扇子を煽いだ。
一方、善次郎の方は不服そうである。
「よいか、善次郎。清すぎる水に魚は棲めぬ。民の不満を逸らすに憂さ晴らしは必要だ。奴が誠の義賊ならば、その旨心得ていよう。それにな、お縄にしようにも相手が海賊で頭領の名もわからぬときては、人相書きだけではどうしようもないではないか」
将軍は飄々としている。
脇に控えていた誠之助は何やらじっと考えていたが、不意に、
「昨日の和寇の話は……」
と、将軍に尋ねた。
「ああ、あれか。あれは長嵜奉行の遠山影晋が非公式に書状を寄こしてきたのだ。どうやら四男坊の銀四郎が密かに探りを入れたらしい。影晋も曲わせ者だが、息子の方もなかなか……」
将軍は善次郎と誠之助を横目で見ながら、パタパタと扇子を煽いだ。
十五
師走、廿三日。
江度参府から阿蘭陀商館長のブロンホフ一行が長嵜へ戻ってきた。再三の調査にも関わらず、中関で盗まれた地図が阿蘭陀商館内に持ち込まれた手段はついにわからず、誰が盗んで持ち込んだのかも依然として不明であった。本府は下手人を特定できなかったうえ、国外へ持ち出そうとした当人である容疑者も死亡していたため、捜査は袋小路に陥った。
本府では東町奉行所の天岡越前守が、阿蘭陀船から回収された地図は全て没収、加えて当該阿蘭陀船に即刻帰国せよとの命を出し、引き続き本件の捜査を行うよう長嵜奉行所に命じた。
こうして江度から帰参したブロンホフたちは、先の暴風雨で被った損害の応急処置が終わり次第、帰国することになった。修理にはあとひと月ほどかかる見込みだったから、入島ではひとまず明後日に控えた阿蘭陀冬至*を祝うことになった。
木本栄之進は、阿蘭陀船の来航禁止という最悪の事態を免れてほっとしていた。今回の事件で阿蘭陀に対して寛容な措置が取られたのは、阿蘭陀が甘蔗栽培国家計画に協力をしたことと、本府の事件に絡む杉浦党の頭領を取り押さえた佐々矢木小次郎の功績があるのではないかと考え、栄之進は今年の阿蘭陀冬至にこぞうと小次郎の二人を招くことにした。
こぞうは思いがけない招待に喜び、小次郎はもしや入島でチヨに会えるかも知れぬと期待して、栄之進からの招待を二つ返事で応諾した。
小次郎は、どこかにチヨの姿が見えぬかとしきりに視線を這わせた。すると、寒風にはためく阿蘭陀国旗が立つ中庭の隅に、花魁姿のチヨが立っているのが見えた。声をかけたものか、しばらく迷っていた小次郎であったが、やがて意を決したようにチヨの方へ足を向けた。
と、その時、チヨの側に寄り添っている人物に気づいた。
フィリップ・フランツ・フォン・シーワット…
小次郎は思わず足を止めた。二人は親しげに何かを話している。その様子を見た小次郎は、そっと入島を後にした。
十六
年の暮れ。
御朱印船が長嵜に到着した。
道場の庵でひとり寂しく年を越すのをいつになく侘しく感じた小次郎は、思わず幾久正宗の家を訪ねた。
戸を叩くと、しばらくして万次郎が戸を開けた。訪問客が小次郎であることがわかると、万次郎はほっとした様子で、
「小次郎さんでしたか、どうぞ中へ」
と言って、勝手口から小次郎を中へ通した。
座敷に正宗が座っている。どことなく声をかけづらい雰囲気であった。
「何かあったのか?」
小次郎が万次郎に囁く。
「実は……。本府に留学ばしとった息子さんが、何らかの事件に巻き込まれたとかで……。亡くなられたとです」
と、涙を浮かべて万次郎が答えた。
「なんと……」
小次郎は驚きを禁じ得なかった。妻に先立たれ、娘を遊郭に奪われ、一人息子までも失ってしまった正宗の心情を思うと、小次郎はかける言葉を失った。
「正宗どの……」
小次郎は、それだけ言って正宗の隣に座した。
正宗は小次郎に顔を向けることなく、息子の棺を前にただ咽び泣いていた。
十七
年が明け、阿蘭陀船が出港する日がやってきた。
長らく長嵜で暮らしていたシーワットが、突然チヨを連れて帰国することになった。どうやらチヨがシーワットの子を孕っているという話である。そのため、途中の寄港地であるバタヴィアで下船するのだという。
日本人の海外渡航は厳しく制限されていたのだが、シーワットの再三の願い入れで、ついに長嵜奉行が許可を出したのであった。
出航の前日、チヨが小次郎の庵へやってきた。
小次郎は驚いたが、チヨは何も言わずに自分の簪を差し出した。
「うちの思いば、読んでつかぁさい……」
先に蜻蛉玉がついただけの、なんとも粗末な玉簪であった。チヨは目を伏せたままである。
小次郎はそれを黙って受け取ると、
「達者でな」
とだけ言った。
蜻蛉玉のような大粒の涙が一つ、チヨの目からこぼれた。軽く頭を下げて去っていくチヨの後ろ姿を、小次郎は黙って見送った。
ふとチヨから貰った簪に目を落とす。
何かおかしい。質素な作りとはいえ、あまりにも軽い。よく見ると、簪の足の先がほどけている。足が、ほどけて…?
先ほどチヨは何と言ったか。
うちの思いば、読んでつかぁさい……
チヨは確かにそう言った。小次郎がほどけた箇所を引っ張って見ると、簪の足がくるりと廻り、中から半紙を撚った紙縒が出てきた。簪の足に見えのは金唐紙の包み紙であった。小次郎は急いで紙縒をほどいた。
それは、チヨからの手紙だった。
小次郎さん
うちはシーワット先生と阿蘭陀へ行かんばいけません
本府に行った兄が何かの事件に巻き込まれて、多額の借金ば負うてしもうたのだそうです
半年ばかり前に男がやって来て、兄の借金ば返せ言うて、無理矢理うちを入島の阿蘭陀人の所へ行かせようとしたとです
入島には普通の者は入れんですけん、遊女として入らんばいけません
うちにはどげんしようもなかった
それで、シーワット先生に相談ばしました
そしたら先生は、自分が借金の返済ばしてやるて言わして角山遊郭の楼主にお金ば払おうとしたとですが、それはできん、あの阿蘭陀人の所に行かんばいけんと男に言われました
先生は直接入島の阿蘭陀人に会いに行かしたとですけど、どうにもならんちゅう話でした
それでうちは……
そうだったのか。
小次郎は、チヨがどんな思いでこの手紙を書いたのだろうと思った。それに自分ではなく、あの阿蘭陀人に相談したのも無念でならなかった。
しかし、チヨの手紙を読み進めるうちにその理由がわかりはじめた。
入島の阿蘭陀商館に滞在していたシーアンペアは、チヨが週に一度、自分の元を訪れることを条件にチヨには手を出さないことを約束した。シーワットは楼主に金を払い、事実上チヨの身請けをした。
こうしてチヨは、角山遊郭ではシーワット以外の男を通されることもなく、週に一度シーアンペアの元を訪れるだけでよいことになったのである。
奇妙だったのは、シーアンペアの所へ行く夜は必ず楼主がやって来て、長煙管をチヨに持たせたことである。シーアンペアはそれを受け取ると次の間へ行き、戻ってくると再びその煙管をチヨへ返す。チヨが入島から出てくると、今度は例の男が待ち受けていて、長煙管をチヨから受け取ると何処かへ去っていくのだった。
こうしたことが、二、三度続いた。
遊郭にいるチヨの元をしばしば訪れていたシーワットは、これを不審に思い、ある時その長煙管を検めてみた。すると、煙管の首が取れて、中の筒からなにやら紙が出てきた。広げてみると、それは国外持ち出し禁止の日本の地図であった。
これは一大事である。チヨは知らぬ間に重大な犯罪に加担してしまっていたのである。
シーワットは、真っ青になっているチヨを落ち着かせ、地図を元の通りに丸めると、煙管に入れて首をねじ込んだ。チヨは、恐る恐る楼主に探りを入れてみたが、楼主はただ長煙管を届けるよう命じられただけのようであった。
そこで、二人はこれには気づかなかったことにして、阿蘭陀船の出航まで言われたとおりシーアンペアの元へ通い続けることにしたのだった。
ところが、不運なことにあの嵐でシーアンペアの乗っていた船が座礁し、手廻り品から地図が見つかってしまった。
このままではチヨが密かに地図を運んでいたことも、いずれは発覚してしまうかもしれない。そう案じたシーワットはチヨとともに日本を去ることに決めたのである。
小次郎さん
おとっつぁんのこと、どうかお願いします
チヨの最後の言葉はそう結ばれていた。
そこで、小次郎はハッとなった。
もしチヨの罪が発覚することがあれば、その責任は正宗にもおよぶ危険がある。正宗が危ない。
小次郎は急いで石段を駆け降り、正宗の家へ向かった。
* * *
◆西海道中膝栗毛シリーズ(前回までのお話)
〜こぞうと将軍シリーズ〜
◆こぞうと将軍
◆こぞうと将軍<其ノ二>
◆こぞうと将軍<其ノ三>
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