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幸せと幸せなこと

幸せについて本気出して考えてみた

幸福論

幸せと幸せなことの話をしよう。

幸せ
[名・形動]《動詞「しあ(為合)わす」の連用形から》
1 運がよいこと。また、そのさま。幸福。幸運。「思わぬ幸せが舞い込む」
2 その人にとって望ましいこと。不満がないこと。また、そのさま。幸福。幸い。
3 めぐり合わせ。運命。
4 運がよくなること。うまい具合にいくこと。
5 物事のやり方。また、事の次第。
幸福
[名・形動]満ち足りていること。不平や不満がなく、たのしいこと。また、そのさま。しあわせ。

[名]
1 運のよいこと。幸運。幸い。しあわせ。⇔禍。
2 神仏への供え物のおさがり。また、それをいただくこと。おふく。ごふく。
[名・形動ナリ]ゆたかなこと。裕福なこと。また、そのさま。

法律でも幸福は扱われている。

基本的人権には幸福追求権が含まれており、法律上誰でも等しく幸福になる権利を有していると考えられている。この幸福追求権は、他人の基本的人権を侵害しない限りに於いて、国家権力によって制約される事は無い。

とされている。

あなたにとって幸せってなんですか?

幸せと幸せなことの話をしよう。

「幸せ」「幸福」「福」と辞書的に定義付けられているものを羅列してみた。

幸福に関しては、多くの思想家、哲学者、偉人etc.それぞれの言葉で説いている。
ググればたくさん出てくるコトであろう。
(なので記載は割愛)

共通項も出てくるし、それぞれ違うこともあるであろう。

他者の幸せを考える前に自分の幸せにまず目を向けてみよう。

「幸せ」と「幸せなこと」
まず分けて捉えることができるか、分けることがまず大事だ。

「幸せ」
冒頭を参照いただけると幸いだ。
「幸せなこと」
幸せを実感させ得る個々の要素

ここで重要なのは、
幸せを実感させる個々の要素ではなく、
幸せを実感させ”得る(うる)”個々の要素
ということである。

そう”得る”が大事で、確実に実感するわけではないということなのだ。

実感をさせ得る

「幸せなこと」は幸せを実感させ得る個々の要素である。
実感する個々の要素でないことに注視していただきたい。

”得る”というワンクッション及びワンアクションがとても大事で重要なのだ。

”得る”のワンクッションがあることで、
実感できる、実感に気付ける / 実感できない、実感に気づけない
のフィルタリングが行われる。

幸せを考える前に、気付いたり、実感できるかということ。
気付いたり、実感するために自己の幸せを捉えることができているかということ。
ニワトリが先か、たまごが先かみたいな話になってしまった。

しかし、実感は自己でコントロールできるモノなのではないであろうか、

「幸せ」

幸せは自己完結出来るモノと他者や他所から与えられ得るモノ
があり、厳密には与えられるモノを得るのではなく、気付いたり実感するモノなのかもしれません。

「幸せ」は内在するモノなのか、外在するモノなのか
断言する。内在するモノである。

「幸せなこと」が内在も外在もするコト・モノなのだ。

小さな「幸せなこと」にも気付ける人は「幸せ」だ。
大きな「幸せなこと」にも気づけない人は「不幸せ」だ。

幸せは完全、完璧なモノでない。
不完全で完璧ではないモノであるのだ。

充す・満たす コト・モノ /充たされない・満たされない コト・モノ
で定義立て、”本当の”「幸せ」を提唱している人もいらっしゃるが、
ボクは賛同・共感しない。

”本当の”の重要性を必要としないし、感じないからだ。

「幸せなこと」はある人にとっては「幸せなこと」であって、
ある人にとっては「幸せなこと」ではないかもしれない。
ある人にとっては気付ける・実感できることであって
又、ある人にとって気付けない・実感できないことであるかもしれない。

大切なことは失って気付く、気付いてないだけで内在しているのだ。

「幸せ」は叶わないことが不幸なのではなくて、
「幸せ」に気付かない、気付けないことが不幸だ。

この話はこんなところで

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