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生存論。

進化論ではない、生存論。
生き残るために進化してきた生物/生命。

サバイバル術ではなく、(ボクの考える、ボクなりの)生存論を記す。

あくまでも持論です。

↑は正にだ。

ここ数年自らを名乗るときは「バリスタ」という呼称を用いないようにしている。
上記に書いてあるが、トラディショナルでオーセンティックなバールマンではないし、スペシャルティコーヒーのスペシャリストでもないと自負をしている。

じゃぁ、何者なのか、どのように生きていく、生き残っていくのかと

きっと安定や安心の未来設計を行うには、
一般社会的な思考では組織・会社に属すべき
との思考が廻るのはごもっともだ。

ボク自身元奥さんにも付き合っていた頃から、
常々言われ続け、”一応”気にしていたことだ。

しかし、向き不向きや、継続性を考えたときに
自分とはとても相性がよくなかったり、ボク個人の素養が大きく、
どのような組織でも自ら疑問を持ち始めてしまう。

自身に対してなのか、組織に対してなのかはケースバイケースだが、
一番というか、核心は自身の部分である。

ルールを守るより、ルールを作る側にと、
野心といえば聞こえが良いのだが、そもそも適応性の問題かもしれない。

表層的適応性は正直高いと思う。

表層的適応性とは、
自分自身様々な組織で仕事を経験してきているが、
表面的に業務の適応能力は高く、そつなくこなせる。
若い頃は、ハッタリと勢い、今はその積み重ねによる経験値で対応できているのであろう。
極度の緊張しいで、緊張が表面に出やすい。
なので本当は多くのことに自身を持っていない。
自分の意識の中で緊張していなくても手が震えたりするし、
緊張と関係なく震えることもある。
人に指摘されたときは緊張している時を除くと、
昔、頭を打ったんですと言い聞かせている。
実際に中学の体育の授業でジャンプ中に接触して脳震盪を起こしたのは事実だし、その時の記憶は今でもない。
高校の部活の顧問に手の震えを指摘された時もその話をした。

逆に高校の部活の顧問に指摘をされるまでは手の震えを気にしたことがなかった、気づいていなかった。
実際に頭を打つ前はなかったのか、頭を打ってから震えるようになったのかもわからない。

話がそれた、
自分自身基本的には適応し要領よくどのような業務もそつなくこなせる。

自分自身の「こころの納得(内面的適応、核心の適応)」とのバランスを取り始めると
基本的に核心の適応が勝ってしまう。

頭では表層的適応で大人の対応をした方が上手く廻るのもわかっている。
しかし、
自我、自己の納得を優先させるし、納得できていないのがあからさまに伝わる。
頭の良さをわかってはいるが、そういうところはてんでダメだ。

永遠に自分は自己の納得と向き合い続け、
納得しないまま、納得するために生きていく。

自分らしく生きることで、生きづらくし、
自分らしく生きている。

昔は不平不満がすぐに口をつく、今も多くは変わらないが、
ひとつ変わったことがある。

他人・他者のせいにしない、自分・自己のせいにして
自分でコントロールできるものに置き換える。
自分でコントロールできるものを頑張る。

自分でコントロールできないものは正直たくさんある。
だから、ときには移ったり、変わることもある。
少しは頑張ってからね。

今までは組織の中で頑張ってきたけど、
自分自身一人で自己責任で頑張るようになったら何かが変わるのか、
結局変わらないのか、蓋を開けないとわからない。

"Life is like a box of chocolates. You never know what that you're gonna get."
(人生はチョコレートの箱のようなもの、開けてみるまで中身はわからない)

箱のデザインで中身がわかるよ!と野暮なことを思うより、
箱のデザインに惑わされず、中身をちゃんと受け取って生きていく。

この話はこんなところで

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