3/10_10年前、ある帰宅困難者の5時間、25kmの記録。
もう、あれから10年ですか・・・。
うちの子も大きくなりましたし、そんなに経ったんですね。
もし大震災が東京を襲ったら。
都心に勤めるワタシはその時、まさに帰宅難民。電車も止まり道路も交通規制がされる中、自宅まで辿り着くには、己の足で歩かなければなりません。
これは、2008年のゴールデンウィークに書いた、私のブログの書き出しの一文です。
当時の勤務先だった大井町から自宅方面へ歩いてみよう、ちょうどZacti(ご存知ですかね・・・当時SANYOが出していた縦持ちビデオカメラですね)を買ったことだし・・・と試した時の記事でした。
この記事を書いたときは、当時持っていた地図「震災時帰宅支援マップ」を実際に辿ってみたいというそれだけでしたが、その3年後、本当に震災が訪れることになろうとは・・・。
2011年3月11日。
まさか「震災時帰宅支援マップ」が想定するような状況が、本当に来ることになるとは思ってもみませんでした。
前述のビデオを撮ったときは大井町から錦糸町までの約16kmの道程でしたが、千葉県民の私は更にその先まで歩く必要があります。
本来であれば余震もありうる中、無理に帰宅するのは避けるべきではありましたが、その時の私は徒歩での帰宅を決行しました。それは早く家族の元に戻りたかったこともありますし、3年前のチャレンジである程度の自信があったからかもしれません。
当時、職場を出発したのは21時を過ぎてからでした。
今も、会社の引き出しにはスニーカーを置いています。
行く先々では帰宅困難者向けのサポートを行なっている施設をいくつか見かけました。震災当日の夜に、すぐこういう行動を起こせる組織は凄いと思います。
駅には人が殺到しマヒ。
馬喰横山では途方もないほどの人が地下通路に列をなしていたのを覚えています。
あの頃の私は(スマホではなく)iPod TouchとWiMAXルーターを使っており、GoogleマップとTwitterを見ながら歩いていました。当時のWi-Fiルーターのバッテリーは4時間もてば良い方で、ちゃんと予備のモバイルバッテリーも準備していましたね。
あの時、津波であれほど多くの人が犠牲になったという事実は夜になって次第に明らかになっていって、Twitterのタイムラインに流れる多くの伝聞を目にする度に「いま日本が置かれている状況」を再認識し、気持ちが沈みがちになっていったのを覚えています。
そんな中、Twitterでのやりとりには随分救われました。まだ古き良きTwitterだった頃ですかね・・・。
北品川〜品川〜田町の第一京浜沿いは特に歩行者が多く、思うように進めない事もありました。幸いな事に都内の建物には被害がそれほど無く、余震による危険物の落下等は発生しなかったのでまだマシだったんだと思います。
今も休みの日にたまに10kmとか歩いたりしていますが、無理な帰宅は二次災害の恐れもあり本来はすべきではなかったな、と反省しています。
「もうあんな災害は起きて欲しくない」というのは偽らざる気持ちですが、願ったところで地震が二度と起きなくなる訳もなく、日頃からの心構えと備えこそが今出来ること、ですね。
【昨日のnoteはこちら】
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