日本型謝罪テクノロジー

日本型謝罪テクノロジー(4)─謝罪になってない、少女像に関する黒岩祐治神奈川県知事の「誤解を与えた」お詫び発言の悪質さ

TBS系のTV番組ゴゴスマや『週刊ポスト』の極めて形式的な「お詫び」を批判した、日本型謝罪テクノロジーの解説記事を、下記マガジンでまとめています。過去記事を読めます。

さて、昨日9月3日に黒岩祐治神奈川県知事が、あいちトリエンナーレで展示中止となった日本軍「慰安婦」被害者をモデルにした少女像について行った自身の発言について、「お詫び」しました(下記記事)。

しかし後述のとおり、この「お詫び」は全く謝罪になっていません。第一回目に書いた8月30日のゴゴスマのお詫びと、第二回目に書いた9月2日の『週刊ポスト』のお詫びと全く同じタイプの日本型謝罪テクノロジーにほかなりません。

政治家が日本型謝罪テクノロジーを使う一番のメリットは、「お詫び」したらそれが合図となり、マスメディアがそれ以上報道しなくなることです。日本型マスコミの慣習で権力者の「お詫び」は「報道の手打ち」の合図なのです。

おそらくこのままだとマスメディアはそれ以上の追求も報道もやめてしまい、黒岩知事はまた同じ暴言を繰り返すでしょう。また他の極右政治家も安心して同じレベルの暴言を繰り返します。

黒岩県知事の「お詫び」の悪質さを、とりいそぎ解説する必要があると思い、簡単に問題点を指摘します。残りは次回書きます。

黒岩裕治神奈川県知事の「お詫び」内容

黒岩知事の「お詫び」の問題点は何か。まず内容を確認します。太字部分をおよみください。

前掲共同通信記事によるとお詫びの内容は下記のとおりです。

神奈川県の黒岩祐治知事は3日の記者会見で、国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」で中止になった企画展「表現の不自由展・その後」に関し「表現の自由から逸脱している」とした自身の発言を釈明した。「検閲して表現させないという思いは全くない。言葉が足らず誤解を与え、おわびしたい〔A〕」と述べた。
 民放キャスター出身として「表現の自由がどれだけ大事か一番分かっている」と強調した。
 一方、不自由展で展示された元従軍慰安婦を象徴する少女像について「政治的メッセージだ」と重ねて批判。「神奈川で展示するなら、公金支出に県民の理解を得られないとの思いがあった」と説明〔B〕した。

(引用は上のリンクから。また太字修飾は引用者。以下同)

NHKの記事はお詫びの部分について下記の通り書いています。

黒岩知事は「検閲をして自分の気にくわないものは全部展示や表現をさせないという思いはない。私のことばが足りず、誤解を与えたことに対しては率直におわびしたい」〔A〕と述べて釈明しました。
一方、少女像をめぐっては、個人の展示に対しては何も言うことはないとしつつ、公金の支出については県民の理解を得られないという持論を繰り返し、発言の訂正や撤回はしない〔B〕としました。

もう少し詳しい記事は、神奈川新聞に載っています。それによると、

表現の自由を逸脱しているとした自身の発言について「慰安婦像問題という政治的メッセージに絞ったもので、一般的な政治的メッセージを認めないと言ったわけではない」と釈明。「私の言葉が足りなかった。誤解を与えたことは率直におわびしたい」と述べた〔A〕。
〔略〕
韓国政府が慰安婦問題の最終的解決をうたった2015年の日韓合意を履行せず、各地に慰安婦像を建立していると批判し「表現の自由とは全く別の問題。税金を使って展示することは県民の理解を得られないとの思いで申し上げた」〔B〕と説明した。
 「政治家の判断で展示の可否を決めるべきでないのではないか」との質問に対し、「韓国政府が(慰安婦像を)どう使っているか。国同士の合意を守らないのはおかしい。あなたはどう思うのか」と気色ばむ場面もあった。〔B〕県には賛否双方から60件を超える電話やメールが寄せられている。

黒岩知事の「おわび」は全く誠実な謝罪になっていない、日本型謝罪テクノロジーそのものである

もうお分かりかと思いますが、黒岩知事の「お詫び」に込められたメッセージは言い換えると次のようになります(Aの部分)。

①謝罪するが、それはあくまでも「誤解を与えた」〔A〕ことへの謝罪だ。
「誤解した」責任はメディアや世間や読み手にあって自分に責任はない、あるとしたら「言葉が足らなかった」ことでしかない〔A〕。

酷いとしか言いようがありません。黒岩知事の「おわび」は、とりあえずアタマを下げて、メディアと世間が忘れるのを待つための、日本型謝罪テクノロジーそのものです。

黒岩知事は、政治家でしかも神奈川県知事なのですから、もし過ちを認めるならば最低限、上の表にある①(問題だった)事実を調査したうえで、②それがルール(社会正義や法)に違反していたかどうかを判断すべきでした。

その結果、違反していたのなら①と②を認めて謝罪すべきであるし、逆に違反していないと言い張るのなら謝罪などすべきではないのです(上の表の赤い矢印はそれを表現しています。言うならば、②ルール違反という判断なくして③謝罪なし、です)。

ここで明確にしておきます。

政治家や企業が「お詫び」で「誤解を与えたので」と言った瞬間、それは日本型謝罪テクノロジーです。それは①事実と②ルール違反という2重の判定基準を回避して、表現や理解の問題に歪曲する「お詫び」は、政治家や企業が自己を正当化するための技法なのです。

黒岩知事の「お詫び」が悪質なのは日本型謝罪テクノロジーを使ってメディアと世間の批判をかわしつつ、改めて批判を浴びた自説を正当化している点にある

私はさきほど引用記事のAの部分を使い、黒岩知事の「お詫び」が、「誤解を与えた」に謝る典型的な日本型謝罪テクノロジーであることを述べました。

しかし黒岩知事の「お詫び」は、それ以上の悪質さがあります。それは今まで触れなかった引用記事Bの部分です。

Bに込められた黒岩知事の「お詫び」のメッセージは次の通りです。

日本軍「慰安婦」被害者をモデルにした少女像は「政治的メッセージ」であると言う自分の主張は間違っていないし、「神奈川で展示するなら、公金支出に県民の理解を得られない」と言う主張も間違っていない、したがって撤回も訂正もしない〔B〕。

考えてみましょう。

政治家が「お詫び」しているはずなのに、気が付けば批判されている当の発言を正当化し繰り返している。

これは最悪です。こんなことを許せば、政治家はどんな不正をやっても、日本型謝罪テクノロジーを使えば許される。それだけでなく「お詫び」をむしろ批判された当の自分の言動を正当化する機会に変えてしまえるのです。

黒岩知事の「お詫び」の悪質さはもっと他にもあるのですが、それは次回以降書きます。

最後に補論を書いておきます、難しいなと思ったら飛ばしてください。

日本型謝罪テクノロジーがまかりとおる理由は、日本社会が①事実と②ルールを軽視するから

ところで、黒岩知事のひどい日本型謝罪がまかりとおるのでしょうか?

考えてみれば、もしも謝罪するなら誤りを認めるはずなので自説を撤回するなり訂正するべきです。逆にもしも自説が間違ってないのなら、謝罪する必要もないししてはならないはずです。

考えるほど謝っているのか謝ってないのかよくわからなくなる、この種の「お詫び」こそ、日本型謝罪テクノロジーなのです。

こんなふざけた政治家の「お詫びしぐさ」がまかり通る理由を、ここで明確にしておきます。

それは、前述のとおり、2つの真理の基準を曖昧にすることに政治家が成功しているからです。つまり①事実関係(問題となっている事実関係を確定すること)と②ルール違反という判断(それが正義や法律に反していたか否かという判断)を政治家が絶対にやらない(メディアも追求しない)からです。それにより政治家は①事実と②ルールが、2つの公的な真理の基準となって、自分の過去から未来の言動を拘束する言説となることを回避することに成功しているのです。

もう一度日本型謝罪テクノロジーを説明した図を再掲します。

この図の赤い矢印に注目してください。

上の①から④までは、じつは論理的な関係がある、ということは第1回記事で説明しました

これは単に、4つが揃っている、というだけではありません。①事実認定がなされてはじめて、②それがルール違反か否かを判断することができ、その結果ルール違反だと判断されてはじめて、③謝罪がなされる、という論理的な関係があるのです(赤い矢印)

最も重要なのは①事実と②ルールです。

①事実が、②ルールに反していた、という判断があればこそ、③不正の責任を履行する(処罰や謝罪など)必要が初めて生じるし、また④再発防止措置の必要も生じます。

だから差別や人権侵害が起きた時、政治家や企業に対して③謝罪だけを求めるのは、じつは良い手ではありません。それだと日本型謝罪テクノロジーにやられるだけです(形式的なお詫びだけされるのみ)。

もしも③誠実な謝罪を引きだしたいのなら、そのためにこそ①事実と②ルールという2つの基準を確定させ、それを政治家や企業に認めさせることがその最初の必要条件となります。

これは差別やヘイトスピーチだけではなく、学校でのいじめや、企業での労働問題や、政治家の汚職など、あらゆる社会問題でいえることでしょう。

①事実と②ルールが大事だという理由は、それなくして④実効的な再発防止につながることがないからでもあります。

じつは①事実と②ルールを使って政治家や企業と対抗し、それにより④実効的な再発防止措置をつくらせるというやり方は、欧米型の民主主義が成立した社会では当たり前となっています。欧米型の社会では、このような①事実と②ルールは、④再発防止措置と結びつき、政治家の言動をポジティブに制約させる不可欠な権力の技術として機能しています(汚職したという事実がメディアに載ると議員が辞職するなど)。

それに比べると戦後日本社会は残念ながら①事実と②ルールが驚くほど軽視された社会です(モリカケ問題でいくら安倍政権ぐるみの汚職の証拠がでてきても政権が安泰な国です)。民主主義を守る盾であるはずの①事実と②ルールの力が軽視されてしまえば、④実効的な再発防止措置も見込めるはずがありません。このような日本社会だからこそ、形式的なお詫びしぐさである日本型謝罪テクノロジーがまかりとおってきたことを、いまこそ見つめ直すべきではないでしょうか。

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