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「嫌い」と出会った時にどうするか

私は人の「嫌い」との向き合い方が下手だ。自分の好きなものが否定された時、自分自身まで否定されたような気分になる。それが子供の頃から人より多い気がして、人からの「嫌い」には敏感だった。つい最近になるまで、否定と批判の区別がつかない人間だった。それゆえに推しを全肯定しないと気が済まなかった。ほんの2~3年前まで。

私の好きな作品がたくさんの「嫌い」を浴びている今、改めてその向き合い方を文章にしておきたい。これからの自分のためでもあるけれど、私と同じように好きなものを否定されるとつらくなってしまう人に、少しでも参考になったらいいなと思っている。

※この記事では非難・誹謗・悪口など「何かを嫌悪して悪く言うこと」を「否定」「嫌い」「ヘイト」のいずれかで表記します。


否定と批判の違い

まずはここから。「嫌い」を言う方も聞く方も、否定と批判の違いをわかっていないと話にならない。ただ「嫌い」をぶつけたい否定と、過ちを指摘して正すよう求める「批判」は全然違うものだ。その違いを「悪意があるか否か」で判別してる人も多いが、それだけでは足りないと思う。
私は、理由に客観性があるかどうかで否定と批判を判別している。嫌悪した理由が、個人の記憶や経験からくるものなら否定。そこに悪意がなかろうと、それをそのままツイートしたら非難に繋がる。

私は、批判には客観性があると思っている。批判とは、辞書の上では「他人の言動に対し、その誤りや欠点を指摘して、それを正すよう求めること」。それは間違ってるから直した方がいいよと指摘されること。
ここで気をつけたいのは「みんなも嫌いって言ってるから」は客観的な理由にはならない。それは主観の集合体にすぎない。誤りや欠点、もしくは自分が嫌悪感を抱いた理由に、客観性がある時だけ批判に繋げることができる。客観的な理由の多くは、社会構造の問題を孕んでいると思う。私の経験上、個人の好き嫌いではなかった嫌悪感はたいていそうだった。そして私が批判した時は弱者への意識が弱いと感じた時だった。
そういう時はたとえ推しだろうと、私は批判している。何も意地悪を言いたい訳ではない。誰だって過ちは犯す。人は変化する生き物だ。至らなかった部分を指摘されたら、学んで直すことができる。だから批判している。その繰り返し。そう思うと、ただ「嫌い」をぶつけたい否定と、過ちを指摘して正すように求める「批判」はやっぱり全然違うものだと思う。

これは私のこだわりだが、批判する時は出来る限り同時に代替案を出すようにしている。それができなければ、極力インターネット上に出さないようにしている。自分の好きなものを他人に否定された時、昔よりは整理できるようになったけど今でもたまに、自分まで否定された気分になるから。批判という形でなければ、ネガティブな感情は極力、人の目に触れるところに出さないようにしている。

「嫌いなもの」=「自分にはわからないもの」

「好き」も「嫌い」も人の数だけある。人それぞれが違う意見を持っている。「自分の嫌いは誰かの好きだから、悪口を言ってはいけない」は確かに正しいけれど、それだけでは足りない気がしている。
「嫌いなもの」=「自分にはわからないもの」である。私は「自分にはわからない」もしくは「自分と異なる」感覚は貴重なものだと思う。だって自分には感じられないものだから。異なる感覚を持つもの同士で対話することによって、新たな発見があって、新たに気づく価値観がある。だから私は「わからない」感覚は大切にしたい。
反対意見を認めないのではない。違う意見を持つ相手を無理矢理自分と同じにするのでもない。優劣をつける訳でもない。「わからない」を受けとめて、違いを大切にしたい。

今のTwitterに蔓延る否定のツイートは、その対話が難しいように思う。強い言葉で相手を言い負かしたいだけに見える。だからもうTwitterは楽しくない。昔だってそれが出来た訳じゃないけど、対話が不可能なユーザーがこんなに多くなかった気がする。

こちらも精神的に不安定だったりすると、感覚の違いを受けとめるなんて意識でいられない時もある。そういう時はTwitterを離れるしかないが、元気な時はできるだけ自分と違う感覚を受けとめたい。

反対意見の排除が持つ危険性について・推しが極端なヘイトを浴びているファンが反対意見の排除以外にすべきこと

推しが極端なヘイトを浴びた経験があるファンは、どうしても被害者意識が強くなるし、否定に敏感になる。そして仲間内でも自分と違う意見を持つものを敵とみなし、排他的になってしまう。傷ついてるしつらいし、わざわざ傷つけるものなんて見たくないのはわかる。けれど、気に食わないものは全部ブロックしてミュートして、自分に都合のいい意見だけを並べていると、気づきを得られない。それが一番まずいと思う。前項で書いた「自分にわからない感覚を大切にする」にも通ずるのだが、自分に都合のいいものだけを並べていると、見落としてしまうものがある。それはいつか誰かを傷つけると思う。

推しの悪口を見るのはつらい。しんどい。だから無理しなくていいけれど、「違う意見がある」こと事体は頭の片隅でいいからおいて置くべきだと思う。

たとえば今、俳優ファンはじゅじゅステを楽しみにすることで推しを支えようとしている。それは間違いじゃない。けれど、「作品にNOを言うなんてあの俳優のファンじゃない」みたいな空気はとても危険だ。そういう空気をうっすら感じるのだが、私の杞憂だといいな。同じ俳優ファンの中でも「役者は好きだけど、あの演出脚本はちょっと…」「あの歌は微妙かも…」と思ってる人はきっといる。それも間違いじゃない。表立って言いづらいかもしれないけど。表立って言いづらいTLを作ってしまっている責任は私にもあるだろうが、これだけは言いたい。「推しに関することを全て肯定しないとファンじゃない」なんてことは断じてない。私が保証したって何にもならないのだが、私が保証する。ファンの集団は一枚岩でないこと。同じ俳優のファンは、同じ俳優のファンでしかないのだ。それ以外の趣味嗜好や思想が合致したら、それは幸運なだけで、マストな要素ではない。それぞれ趣味嗜好が異なることを頭に入れておくべきだ。(幸運なことはもちろん喜んでね)

いつか主語を入れ替えただけのことをしないために(私個人の話だけど)

批判と否定の違いを知り、同じファン内でも異なる意見があること、自分にわからない感覚を大切にすること。しんどい時は無理しなくていいから、元気な時は視野を広く持つこと。これらができていないと、いつか自分が嫌いなものと出会った時に、自分たちが受けたヘイトと主語を入れ替えただけの同じことを誰かにしてしまう。私はそれを絶対にしたくない。

本当の復讐は傷つけてきた相手と同じことを繰り返さないことだ。それを続けて、ただ「嫌い」をまき散らして承認欲求を満たす行為は誰もやってないダサいことにすることだ。そのために、自分にわからない感覚を大切にすることは、すごく地道だけど確実な道だと思う。私個人の話になるが、何かを批判する時に気を付けていることがある。その昔に自分の推しを否定してきた論調と主語を入れ替えただけになっていないか。「嫌い」だけで終わっていないか。尤もらしい理屈で「嫌い」を肉付けしただけになっていないか。送信ボタンを押す前にこれらを何度も何度も確認している。

今は原作ファンも俳優ファンも「嫌なら見るな」を投げ合っていないか。舞台を悪く言うなら来るな。悪口に傷つくならブロック・ミュートしろ。それも一つの処世術だし、本当にしんどい時は離れるべきだ。でも、自分が楽しめるものだけを見ていると見落としてしまうものがある。それはいつか誰かを傷つけるだろう。それと同時に、私の視界に入らなくなったところで、私の視界の外で「嫌い」が推しを傷つけている可能性はなくならない。私はそれもとてもつらい。
推しがアンチまで黙らせるような舞台ができたらそれは素晴らしいことだが、漫画みたいな一発逆転を祈るよりも自分にはできることがある。というか、やるべきことは「違いを認める」ことだ。推しには反対意見に負けないくらいポジティブなことを投げ続けながら、決してアンチと同じ行為をしないよう、視野を広く持ち続ける。自分がされて嫌だったことを絶対にしない。そのために「自分と違う感覚」に目を向ける。私はそれが鋼より強い強度で、背骨になっているのだと思う。これは数年前に別界隈の推しで経験した極端なヘイトによる被害者意識の影響だろうけど、当分抜けないと思う。

悪口を言う方は勿論、聞く方も忘れていること

少し前に「推しを全肯定するなんて宗教と同じ(ツイートの詳細は忘れてしまったが全肯定オタクを危惧する主旨だったと思う)」的なツイートが出回ってきた時に、「今までたくさん否定されてきたのに、ファンが推しを全肯定しなければ誰がするの?否定され続けたら推しが活動をやめてしまうのでは?」というツイートを目にした。この意見には推しを心配しているようで自分本位さが見え隠れしている。
まず、否定と批判の区別がついていないのではないか。推しに対する違和感の正体を注意深く見つめて、客観的な理由があったらそれは批判されて然るべきだ。推しが人を傷つけてしまう事を減らすために。
そして、活動を辞めてしまうのでは?という不安は、自分本位すぎないかと思う。私は推しに、無理だと思ったら辞めてもいいと思っている。人の心は壊れたらもとに戻らない。これを悪口を言う方は勿論のこと、聞く方も忘れていないか。何を言われても己を奮い立たせて立ち向かう決意は素晴らしいが、逃げる選択もできてほしい。それが恥ずかしいことだとは全然思わない。命を守るために当たり前のことだ。

以上、私がこの10年以上のオタク生活を経て辿り着いた「嫌い」との向き合い方でした。しんどい時は逃げつつ、気づきを得る機会と捉え、相手にもまた同じように与える(といってもアカウントを非公開にしない・ブロックを極力避ける程度だが…)。傷つけてきた相手と同じことを別の誰かにしていないか、注意深く自分を見つめて、視野を広く持ち続ける。私は「嫌い」との向き合い方が下手だ。こんなに修行僧のようなことしなくていいのに。でも、こうでもしないと見落としてしまうものがある気がする。

じゅじゅステ、無事に公演できるといいな。