彼女がいる、そんな夢を見ている。

彼女がいない。いたことがない。今の自分の生活では、自分のことを好きになる女性などいるはずもない。結婚相談所や出会い系サイトに自分を登録するとしたら、自己紹介文はどんな言葉になるだろう。おそらく就活で使う履歴書とほとんど変わらない。就活でも私生活でも、自分が本当に見て欲しい部分はそこには書いていない。

側から見れば、僕のこれまでの人生は順風満帆なのかもしれない。僕は今まで大きな失敗をしたことがない。それは、絶対に失敗しない道しか選んでいないからだ。高校卒業までのレールは、親兄弟とこれまで日本が築いてきた教育システムによって既に敷かれていたし、大学受験も絶対に合格できると確信するまで勉強したからそこまで大きなチャレンジではなかった。大学に入って、友達もそこそこできて、勉強も人並み以上には頑張って、今は大学院に進もうとしている。

でも、自分が誇れるものは何もない。自分が1番大切にしているものが、自分に備わっていないのだ。それは自分にとって、学歴や運動神経や人脈なんかよりもよっぽど大切で、そのためだったら他のものを捨てることも厭わないような代物だ。

私は、1人の人間として、心から頼られてみたい。

これまでの人生を振り返って、他人が僕を「自分だから」頼ってくれたことがあっただろうか。自分への評価は、実は自分自身ではなく、自分が装備している武器や防具に対しての評価ではなかったか。丸腰の、素っ裸の自分を必要としてくれる人はいるのだろうか。そんな漠然とした、でも確実に心に突き刺さる疑問が、いつも頭を離れない。

「自分を心の拠り所にしてくれる人がいる」という事実は、人を何倍も強くする。精神的に未熟な人間が、親になった瞬間にまともになる。自分のためよりも、誰かのためなら頑張れる。そこにあるのは、他の何者でもなく、「自分を愛してくれる」人の存在だ。もちろんそれは一方通行の愛ではなくて、お互いが心の底からお互いを愛し、信じ合うからこそ、そんな感情が生まれる。自分が心から愛されていることは、メンタルの強力なセーフティーネットだ。どんなに理不尽なことがあっても、心が傷つけられようとも、自分を大切に思ってくれる人がいるという事実は不変だし、その事実が自分の支えになる。

もちろん友情は大切だし、自分だって親から充分な愛を受けて育ってきた自覚はある。だけど、そういうことじゃなくて、偶然や打算の一切ない、第三者からの純粋な愛を感じたことがない。そんな自分が怖い。結局のところ、今の自分には、自分が自分でなければいけない理由がない。自分の能力は他人や機械で簡単に代替できてしまうし、親は自分がどんな人間であろうと最低限以上の愛を注いでくれただろう。じゃあ、自分の居場所はどこにある?今、この場所で、こういう人間として生きている自分を認め、愛してくれる人はいない。なら今この瞬間、自分はなんのために生きているのだろう。

自分が1番幸せなのは、誰かに純粋に愛されている瞬間だ。自分のことは自分が1番よく知っているからこれは間違いない。そしてこの意味で、私は生まれてから幸せだったことがない。ずーっと空虚な人生。

中学生くらいから「彼女が欲しい」が口癖だった。冗談まじりの時もあれば、本気の時もあった。「本当はそんなこと思ってないくせに」と言われて、何故か心の奥を見透かされたような気がした時もあった。

今思えば、ずっと昔から、自分が欲しかったのは彼女なんかじゃなかった。愛だったんだ。利害関係なしに自分を愛してくれる人の代表格が世間一般に彼女と呼ばれる関係性の人間なだけ。彼女ができたからといって、本当に愛されていると感じるのかどうかは定かではないし、その逆も然り。人から聞いた話では、彼女がいることがいいこと尽くめというわけでもないらしい。でも、そうだとしても、「彼女がいるときの自分」「誰かから愛されている自分」を知らないままでは、自分の生きる意味は何かという問いの答えに近づくことは不可能だ。空虚な人生は続き、一生自分のことも嫌いなままだろう。いつどこに、自分が愛し、自分を愛してくれる人が現れるんだろう。その時自分は変われるのか。というか、今の自分も変えなきゃダメだよな。

ずっと、誰かに愛されている。そんな夢を見ている。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?