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エッセイのようなもの

人は生まれる。何から生まれる?きっと多くの場合、母親の子宮から。
人は生まれる。何から生まれる?別の場合、母親ではない女性の子宮から。はたまた、人工出産装置や動物の子宮から、もしかしたら、無から生まれたり。

こういう想像は、いつも新しい世界を創っていくようで楽しい。世界は自分が創り出すと言っても過言ではないように思う。

自分の中にある感覚、自分の中にある想像力は、果たして自分のモノなのだろうか?

自分のモノと言えるなら、その瞬間までに生まれた外世界の情報を、自分は何らかの方法を通じて得ることは出来るのだろうか?

想像力を自分のモノとする為に過去の情報を得ようとしても、一生掛かっても突き止めきれないだろうしなんとなく野暮な気がする。

今、閃いた事。それは同じこの瞬間に誰かの中にも閃いたかも知れない。あとはそれを「どうするか?」だ。

心の中で熟成するもよし、行動を起こすもよし、楽しいをやり散らかそう。

誰も何も止めない。誰も何も求めない。誰も共感しなくてもいい。好きなことを好きなように遊び尽くせる世界なんだから、遊び尽くせばいい。

遊び尽くした結果、何が残ろうと、誰も気に留めないかも知れない。誰かに縋ることもなく、ノーコンティニュークリアを目指すという、自己満足だけでも良い。

この世界は遊びで出来ているように感じる。

そして一人遊びを色んな人と一緒に遊ぼうとした結果が、社会というものの出来上がりなのだろうと感じる。なのに人は社会性というウイルスに感染したのだろうか、同じ様にしなければ遊べないと思いこむ病に掛かっているかのようだ。

このような徒然と書く時に、頭から何かが閃く。エッセイとエッセネ派って似てるなぁ〜…。と、ここで調べてみる。エッセイ。英語ではessay、フランス語ではessai 思索や意見、感想などを形式にとらわれず、簡潔に述べた文学の一ジャンル。日本語では「随筆」と訳される。文学のジャンルのひとつ。英語のessayはフランス語の「試す、試みる」を意味する動詞essayerから発している。フランス語のessaiはessayerの名詞形。これが最初に「随筆」の意味で用いられたのは16世紀後半、モンテーニュのEssaisであり、邦訳は「随筆録」。当時は文学様式としての「随筆」はなく、エセーとは「経験や思考や吟味、試験や実験」などの意味があり、モンテーニュ自身の言葉を借りれば「判断力の試み」だったそう。ある種の思考実験に近しい所がエッセイとも言える。

次いでエッセネ派、洗礼者ヨハネやキリストが属していたとされるユダヤ教の一派。ヘブライ語でהאיסיים‎、古代ギリシャ語で Ἐσσαῖος/-οι, Ἐσσηνος/-οί、ローマ語でEsseni、英語ではEssene(s))多くは書かないが教義や戒律には、多くの試みが見られる。

似た言葉というものに僕は惹かれる。似た名前、もし音が何らかの記憶を宿すものだとしたら、音の中に生まれる見えないエネルギーもまた、似たものを写し出しやすいのではないだろうか。

人は似た文字や似た音に対して何となくそう感じる感覚がある。「タモリ倶楽部」の「空耳アワー」は、そんな「誰が言ったか知らないが言われてみれば確かに聴こえる」をベースに番組の1コーナーとして成り立っている。あれば僕らがどう聴きどう感じるかまでがセットで、笑いとして昇華した企画である。

自分と違う他者が、何をどう聞き、どう感じたかまでをセットにして、理解をするのに長けた職業の方々が水商売におけるホストやホステスなどのだと思う。お客様が惚れ込むほどに気に入る手練手管を、日々鍛錬されているのだろうと感じる。

あるいはアイドル、あるいは宗教における教祖、このような方々もまたストーリーや装飾に華やかさや神々しさを備える事で、よりファンや信徒の皆さんが応援や信仰に対し向き合い易くなるように感じる。


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