がんばったコメシ

先学期のある授業でコメントシート書くのに毎回妙に張り切ってて、このままなくなっちゃうの勿体無いからここに記録として残しておこう。そのとき、その授業自体が自分らの身の回りの出来事をどの視点で切り取ってみるか、その時に使われる理論をそれっぽくパワポに乗せてだらだらと説明をべたばりしてるだけの授業だったんだけど、その分自分が普段どんなことを考えるか見つめ直すための絶好の機会ではあった。だから、期限内に出せばどうせ中身なんてちゃんと読まれていないであろうコメシをしっかり目に書いた。

2/2, 2023
オブジェクト指向存在論の話を聞いていて、半世紀前に行われた東大全共闘会議を思い出しました。三島由紀夫と東大左翼集団とが議論する中で、似たような話の展開がありました。目の前にある足のついた木材の平たい板を勉強や読書のための「机」と見るのか、大学を封鎖するための「バリケード」としてみるか、これはある種人間を中心に据えて事物との関係性を主観的に決める相関主義的考え方で、一方で目の前にある平たい木の板はもうすでに空間に絶対的に存在しているものという別の主張もでてきて、これは存在論的転回に近いなと感じました。その議論ではこれからの日本が向かうべき方向性がいろんなイデオロギーを柱に展開され、認識論や存在論だけでなく、我々日本人は「日本人」としての限界を越えることができるのか、それとも人種を超えた普遍的な定義があるかなどカルスタと被るような議論がなされていて、当時の議論のレベルの高さに改めて驚くとともに、言葉の使い方や表現の違いはあれど、森羅万象の本質はずっと前からほとんど変わらず、古典に代表されるように昔の人々の中にそれらに気づいている人は少なからずいるんだなと、科学技術の進展に伴う人間の生活の変化は凄まじい一方で物事への思考解像度は普遍的に変わらないところも多く、そのギャップに漠然と煮え切らない感覚を覚えました。

2/8, 2023
実在論の考え方は脱人間中心主義、脱科学絶対主義をしていくためにすごい重要な役割を担う概念だと思います。そして自分もこの考え方には共感する部分が多く、人間が中心になって循環している社会システムとそれの皺寄せとして被害や一方的に立場が脅かされている自然環境に疑問を感じる時が多々あります。ヒトの傲慢さや科学至上主義に反対するメッセージ性のある主張を作品の中でうまく描き出し、自分自身も強く影響を受けているものにジブリ作品があるのですが、その中でも漫画『風の谷のナウシカ』はいき過ぎた科学技術のもたらす悲惨さと循環する生態系の中のごく一部としてのヒトの位置付けをすごい見事に描き出していて、1980年代の時代背景でこれがつくりだされたことに作品似に携わった人々の的確な先見性にはっとさせられました。アニメ、映画や漫画といったクリエイティブ産業のほうがアカデミックよりも時として強いメッセージや教訓がきれいに描かれる場合があり、たしかにそういった産業をどう守っていくかは未来を考える上で非常に重要なことだなと思います。

2/16, 2023
今回の授業でオブジェクト指向存在論と脱社会構築主義とのつながりがなんとなくではありますが見えてきました。モノの存在それ自体を記号をつけることなく認めることで、人為的・社会的に作り出されている差異(女性が女性として社会的枠組みを当てはめられ、それにそって女性として定義づけられていくように)を乗り越えようとすることなのかなと解釈しました。モノそれ自体の存在を認めることを出発点として一つ一つ人間からみてどのようなものか一方的に記号づけするプロセスの先をいく試みは、これまで人間を中心として捉えてきた史観や観念を脱却するのに必須で、それ自体は観念的にもそして地球環境にある生態系を持続させていくためにも重要なことだとは思います。ただ、記号論から脱却しようとする考えをオブジェクト指向存在論と記号づけしているのは多少の皮肉を感じました。結局、ある物事を言葉によって説明しようとすることをやめない限り存在論には限界があるのかなと思います。極論を言ってしまうと、何かの相関関係やつながりを言葉で考えることをやめてありのままを何も考えずそのままの姿で受け止めることですが、これは全てに対する諦観でそこから何も進まない気もするので、記号論と存在論の関係性は非常に面白いなといつも授業を聞いていて思います。アンサンブル的な考えを使うと、記号論や存在論を真ん中に据えて考えてしまうと二元論的思考に陥るから、存在論の考えをしっかりと視野に入れながら、それをできるだけ客観的な立場から言葉で説明する、このいろんな考え方のごちゃ混ぜ、絡み合いでできるアンサンブルが、今現在ヒトが思考しうる努力のあり方の最大値なのかなという暫定的な結論に落ち着きました。

2/22, 2023
科学を絶対とする価値観や文系・理系と学ぶ分野の区分けを行なってそれを逆手に取った私大と予備校ビジネスは、昨今の大学生にとっては身近にあり過ぎてかつ大学の名前さえ手に入れば良いと考える人が大多数であることから、みんなうすうすは気づいてはいるけど知らないふりをしているのかなと思います。ただ、この価値観の根底には現在ある社会インフラの多くが世間的に「理系」とされている学問分野の知恵を借りて構築されているのがあるからだと思います。今このコメシを書いているラップトップやスライドを作るためのPower pointなどのソフトウェア、それを教室で映し出すためのプロジェクター、スマホ、スピーカー、建築物、車など我々の社会をある種豊かにしより便利にしているモノは多くの場合、理系的な研究分野の成果から生まれています。決して文系とくくられている学問の方が劣っているとか全く思いませんし、イノベーションとして発明されているモノは文系や理系の考え方や知識の絡み合いで生まれているとも思うので、一概に理系が優れていて文系は何の意味もないと考えるのは、典型的な近代の科学至上主義なのかなと思います。それを超えるための「文系による存在論」はかなり斬新でおもしろいなと感じると同時にそれはどのような思考体系なんだろうと字面では理解していても中身が全く想像できず、これが言語化できると人類の思考が1段階上がるのではとワクワクするとともに、その概念が言語化されることがはたして正解なのか、もしかしたらそこにある概念として言語化されないままであることがあるべき姿なのかとも思い、授業の中でいろいろと考えさせられました。

こんなに考え詰めていたことを言葉で表現できてたんだね、自分。
自分の思考はやっぱりすごい流動的で、刹那的で、感情的で儚いな。
すこしずつ自分の芯を太くしてこ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?