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エッセイ【飼っているわけでもない猫と過ごした一年】

悲しむ以外は、小説を書いていた。
小説を書いている以外の時間は、眠っていた。
怖いものは見ないでいられたけれども、私が生きてきた時間の中で、一番寂しい風が吹いていた一年の話です。
私には、祖母のお家に居候していた時期があります。嫌いだった本当の家に、いよいよ居られなくなるような精神状態だった。私は心のために、祖母のお家に逃げました。眠っている時間以外の全てを、小説を書くことに費やしていた一年。

誰もいない私に、親しくしてくれた猫がいました。
知り合ったきっかけは忘れてしまった。知り合うというような大袈裟な言い方で表すような出会い方ではなかったのでしょう。その子は、祖母宅の裏のお家の猫だった。祖母はその裏のお家の奥さんと仲良しなので、その猫は祖母宅の敷地を自分の敷地の飛び地であると言いたげに闊歩していました。

三毛猫の、とろろちゃん。
皆は、とろ、と呼んでいました。
某アニメ映画の主人公のように名前を取られたみたい。呼びづらかったのでしょう。普通に成猫だったけれども、小柄な子でした。いつも綺麗に前脚を揃えて、ちょこんと座っているお行儀の良い子でした。

私と三毛猫のとろろちゃんは時々会っていました。一日に一回くらい、ふらっと会って、遊んでいるというよりも、一緒にぼんやりしていました。

祖母宅には外階段があって私がその一番下の段に座っていると、とろろちゃんはぽてぽて走ってきて、私の膝に乗っていました。

とろろちゃんは毎日ふらふらしていたし、私は何処へも行けなかった。
私と、とろろちゃんは何もしないで風に吹かれていました。とろろちゃん私の膝の上でうとうとしていました。私が座っていないと、よじ登られて爪を立てられたりしました。痛かった。

ぼんやりしていることが、一緒に過ごしている時間の大半でしたが、一緒に西瓜を食べたこともありました。当時祖父が、西瓜を物凄い量作っていたのです。趣味で。丸くて大きな西瓜を切っていた夏、確かその時は私の母や妹も来ていて、とろろちゃんに、切り分けた西瓜を少しあげたのです。普通に舐めていて可愛かった。

他に思い出すことといえば、トイレに入ったら、とろろちゃんがいて驚いたこともありました。
祖母宅は、トイレが外の別棟みたいなところにあります。冬の夜が冷える、乾いた空気の場所なので、夜になると水道管が凍らないようにストーブをトイレの近くに置いておくのです。
ストーブがついていることを何処で知ったのか……猫は暖かい場所をよく知っていますよね。私は夜にトイレに入って電気をつけたら、とろろちゃんがストーブの前に座っていてびっくりしたことも面白かったこととして覚えています。

私は、とろろちゃんと友だちだったのか、よく分かりません。
今も、思い返す事はよくあるのですが、飼っている猫でもなく、過ごしていた時間だって一緒に遊んでいたわけではないのです。

荒んでいた私と、親しくしてくれたことを嬉しく思うくらいです。

私はとろろちゃんと、曖昧に別れました。
曖昧に別れた理由は、また、会えると思っていたからです。
私は祖母宅を離れて、半年経たないくらいに、とろろちゃんは車にぶつかってしまって、亡くなったそうです。訃報も、祖母から聞いた程度でした。
ちゃんとお別れを言っていたか、思い出せないまま。
でも私は、あの子の飼い主じゃない。あの子も、私の猫じゃない。

祖母の家に帰ったら、また会えると思っていました。
また私の膝の上で丸くなっているのだと思っていました。

猫に助けられたことがある人というのは、たくさんいるのではないでしょうか。
ありがとうと、言えなかったことは今でも悲しくて、あの時に戻ってないてしまえるのではないかと思うほどです。当時の私は、何にも感謝などできなかった。お礼を言えなかったのは、仕方がなかったのかもしれないけれど。感謝できる心が、あの頃の私には、貧しさを覚えるほど、無かったのです。

私は、祖母宅にいた理由を、とろろちゃんに話した事はありませんでした。独り言のように、呟いたこともなかった。だから、母の引っ越し先に私もついていくということを、伝えなかった。

あの子は私があの一年を、祖母の家で誰にも見られないように泣いて過ごしていたことを知っていたのかもしれない。

今でも思い出すのです。夕方のもう寒い風の中で、私は外階段に座っていて、とろろちゃんは私の膝の上から動かない。寒いと思いながら、膝の上だけが温かかった。
あまり鳴かない猫で、膝に乗りたい時だけ、鳴いていた。甘えたい時だけ、私の周りをうろうろしていた。現金な猫さん、と、面白がっていたけれども。

私は寒い夕方の風に吹かれていました。三毛猫のとろろちゃんは、私の膝の上でふわふわしていました。私たちは風に吹かれて過ごしていました。膝の上でうとうとしているとろろちゃんを動かしたいのに、動かせなくて、私はただただ寒いと思いながら、風に吹かれていました。
あの子はきっと、私の秘密を知っていた。私は秘密を知られていたことに、何年も過ぎてから気づいている。
でも、私たちはそれで、よかったのだと思います。

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