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エッセイ『空の青みを知る井の中の蛙』

「井の中の蛙」という言葉に、私はずっと違和感を感じていた。

世間知らず、と暗に揶揄するような響きが、世間知らずな私には好ましく思えなかったのかも知れない。でも私は、知らなくていい世間なんてたくさんありすぎると思っている。

誰もに情報を許容できる限界があると私は思っている。その許容量が、私はきっと、他の人達より著しく少ない。
だからネットの情報に長く触れていられない。多すぎる情報は疲れるし、余計な感情を作る原因になってしまう。
私はニュースやテレビを一切見ないのですが、それは広義の「ニュース」というものがほとんどネガティヴだからです。有名人のゴシップとか、政治家の失言とか。木登りができただけで某ニュースサイトに載るようなパンダばかりではないのです。
世間知らずだと自分に対して思うけれど、そこに負い目はないので、私を責めたり貶す人は現れません。
話がそれるので短めに書きますが、負い目を感じていることがあると、それを責めるようなひとに出会うらしいですよ。

それはさておき「井の中の蛙、大海を知らず」という言葉についての疑問があります。
それは「大海を知ること」が必ずしもそのひとにとっていいことになるのかが分からないということです。

大海のレベルを知って、頑張れるようなひとならばいいかもしれません。
でも、大海を知ったがために、大海で出会った誰かと自分を比較して嘆いてしまったら?

どちらかというと、私は誰かと比較して嘆くタイプです。少年漫画の主人公のように、ライバルの存在で頑張れるようなできた人間ではありません。
ここで言うところの「レベルの高い誰か」というのは、上述した「多すぎる情報量」と似ていると思っています。
凄い人というのは、存在が過剰です。苦手な人と一緒にいないといけないときの疲れとは勿論違いますが、私は比較してしまう自分に疲れてしまいます。
だから、私は凄い人は視界に入れないようにしています。余計で否定的な感情を呼び起こす原因になってしまうからです。

大海を知って嘆いてしまうくらいなら、自分が定めた届かない、何もない空の青さだけを、目指したほうがいい。

これが私の結論でした。
心の平穏のうちに、静かに自分の行動を磨いて行きたいと思った時に、邪魔になりうる感情の発生源を断つことが、私には有効だと思ったからです。
自分で描いた届かない理想像を遠く(空)に掲げて、井戸の底を住まいにしながら、理想像までの階(きざはし)を小さく作っていく。
私が選んだ過ごし方はとても孤独な時間かも知れません。
でも、私のうちの平和に生きながら、心を乱されることなく邁進していくためには、孤独は必要不可欠でした。
書くというなすべきことを続ける。受け取れる情報量や刺激が少ない私には、使命を守るために、平穏を保つことも必要でした。

空の青みだけを目指すのは、きっと、とてもつらい、荊の道を歩むことと同じです。
手が届かない遥かな理想と、自分を比べて、決して摘むことができない青い花を探す旅です(元ねたが分かる方はお友達になりましょう)。
孤独でなければ、逆につらすぎて歩めない道だと思います。
大海を知るほうが、本当は楽なのです。
海には勿論、凄いレベルの人はいます。でも、自分に近いレベルの人だっています。自分よりも技術が下に見えるひとだっているかも知れないし、仲間が見つかるかもしれない。誰かと頑張れることができるひとにとっては、大海を知ることはいいことかもしれません。例え少年漫画の主人公のような性格ではなくても。

青み。海と空の青は、同じようで全く違います。
海とは違う色の青さを知って、自分を研いていくのはとてもストア派なことだと思います。
決して届かない理想と、自分を比較するということ。
その漠然を遠いか平和か、どちらに感じるか。それ次第です。

最近は評価が目に見えやすい媒体が多いですよね。
SNSのいいね、投稿サイトのブックマーク、ハートの数、閲覧数……これらは全て、数値化されています。
数字は残酷です。言い方が悪いですが、数字しか信じないひとだっていますし、数値化することは馬鹿なひとを基準にした評価方法です。誰が見ても分かる。
勿論、いい数字が評価としてつけられている物事を否定したくて言っているわけではありません。
問題なのは、その「数値化」が落ち込みの原因になってしまうことです。

・私よりあの人の方がいいねされている
・どうして私の作品には評価数が増えないんだろう
・自分の作品は面白くないのだろうか

落ち込みの原因になる数値化によって、自信をなくす人は大勢いると思います。
私もそうです。その落ち込みが、自分が書くことに自信があるものを書こうとする時に、悲しい気持ちを連れてくる。

大海というのは分かりやすい評価の荒波だと思っています。
私が基準のはっきりした大海よりも、漠然と遠い空の青みを見つめていようと思った理由。それは、漠然とした凄いものには悲しみを抱かないで、マイナスな比較を下さずに、自分の平和のうちに高い場所を目指す努力ができると思ったからです。

勿論、ひとによって向き不向きと、どちらがやり易いか、快適でいられるかは違ってくるので、あくまでも私の場合という話ですが……井戸の中に住んでいたっていいのではと思った話から、こんなことを考えていたのでした。
傷つくことも落ち込むことも、仕方がないけれど、それで現実が変わるわけではないのならば、自信を削られるきっかけになりそうなものは排除していく方が精神衛生上いいと思うのです。

心の平穏が、私は全てだと思っています。
心に筋肉をつけて、感情を管理する(コントロールまではしない感じです)
余計な波を作らない。
悲しいものは見ない。苛立つものも見ない。他のだれかがいい評価をされているときは、きちんと喜べる時に見て、お祝いをする。

空を見ていれば、同じように空を見つめている誰かと、空へ伸ばした階の途中で出会うことがあるかもしれないですし。
知らなくていいことや、不必要なものを見極めてミュートしていく力は、大切だと思うので、私はいつまでも空の青みを見つめる蛙でいたいです。

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