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なぜ僕はオシャレじゃないのか?

僕は全くオシャレじゃない。

それは単にファッションに興味がないからだ、とずっと思っていた。

でも最近、「そうでもないな」と思い始めてきた。

僕はファッションに興味がないというよりは、「おしゃれじゃない」という状態を保つことに固執しているといったほうが、

僕の心の中をよく表している。

こだわりだしたらきりがないものってたくさんある。

衣服だけじゃなくて、

時計、車、食事、イヤフォン、パソコン、カバン、財布、靴、スマホのケース、、、

挙だしたらきりがない。

でも、僕はそういうものに興味がない。

というか、「そういうものに興味がない」ということを保つことこそが生きるうえで重要だと考えている。

僕の夢は「世界を変えること」だ。

「世界を変える」ってすごく大変なこと。

だから、「世界を変える」以外のことに拘っている時間なんて僕にはない。

「世界を変える」以外のこだわりを全部捨てたとしても、本当に世界を変えられる確率なんてとても低い。

僕の全勢力を世の中と対峙することに向けたい。

そうすることで、夢が叶う可能性も少しは上がるかもしれない。

人間の脳みそのキャパシティは有限である。

僕が今日着る服のことを考え込んでしまうと、

その分、もっと大切なことを考えられなくなる。

そういった、僕にとって忌み嫌うべき「無駄なこだわり」の象徴として「おしゃれへのこだわり」がある。

スティーブ・ジョブズは同じ服を何枚も持っていて、いつも同じ服を着ていたという話は有名だけど、

たぶんそれもそういうことなんじゃないかな。

「おしゃれに気を遣わないでいたい」という僕の極端な姿勢は、こういう理由によるものだ。

そのこだわりが強すぎて、

絶対スーツで行くべき場にTシャツ短パンで行ってしまったり、

いつもヨレヨレの服を着てて人に気持ち悪がられたり、

もちろんネガティブな影響は数え切れない。

でも、そのネガティブな影響を超えるほど、メリットがある。

それは自分を律することができること、である。

明日来ていく服に迷ったら、少しでもおしゃれじゃない服を選ぶ。

あえて選んだダサい服装のせいで人からバカにされたり白い目で見られたりしても、それを凛として耐え忍ぶ。

そんな繰り返しによって、僕は僕の体に、自分の理想とする生き方を染み込ませ、教育しているのだ。

他人の成功を羨んだり、

お金持ちの人に嫉妬したり、

高いレストランで食事したくなったり、

ちょっとブランド物の財布を買いたくなったり、

生きているとたくさんの誘惑がある。

そういうものを断ち切って、自分のやるべき「コア」に集中するんだ、という気迫を体の中に充満させなければ、

人は自分を律することはできない。

そのための「おしゃれじゃない格好」である。

僕はそこにとてもこだわりがある。

昔友達に、

「たかおっていつもパジャマみたいな服を着ているよね」

と言われたことがある。

そうなのである。

パジャマこそ、僕の理想である。

着ていることも忘れるくらいストレスを感じない。

自分の本当にするべきことに集中できる。

気を逸らさない。

そんなパジャマみたいな服を僕はいつも身につけていたい。

でも、本当に「着ていることを忘れる」服に出会うというのは、案外と難しいものである。

小さなチャックが気になったり、

生地が少しだけゴワゴワしたり、

大きさが微妙にフィットしていなかったり。

そういう少しでも気になるところがあると、それは僕が着る服としては失格である。

僕にとって、服の良い悪いは、買うときには容易に判断できない。

買ったときはすごくなめらかそうな生地も、

何度か洗濯を重ねるとゴワゴワしてきたりする。

買ったときは、ちょうど良い裾の長さだと思っていたズボンが、

何回か履いていくうちに少しだけ長過ぎることに気づいたりする。

本当に満足できる服に出会えるのはごく稀である。

だから僕は一度「良い」と確信した服はいつまでも着続けることになる。

今だに中学生のときに買った服を普通に着ていたりする。

僕にとって、服の見た目はどうでもいい。

ちょっとダサいとか、色あせてるとか、そんなの関係ない。

その服がいかに着心地がいいのか。

その服がいかに、来ていることを忘れさせてくれるのか。

その服がいかに、僕を今やるべきことに集中させてくれるのか。

その一点だけが重要なのである。

ヒッピーたちが長髪を切らないで放置したり、あえて古い服を着たりするのも、同じような理由によるのかもしれない。



僕は、中身で勝負したい。

外見なんて関係ない。

僕の作り出したもの、

僕のしゃべる言葉、

その一つ一つで、僕という人間の価値を判断してもらいたい。

どんな服を着ているとか、どんな時計をはめてるとか、どんな顔をしてるとか。

そんなのは二の次、3の次である。

どーーーーでもいい。

そして、僕もそういうふうに人を見たい。

きれいな入れ物には目もくれず、

その入れ物をひっぺがしたところにある「生の人間」と向き合っていたい。

素晴らしい実績や学籍を持っているピカピカの人がめっちゃしょうもないことばかり言っていることはよくある。

反対に、地位も名誉も実績もない若者が、素晴らしい考えを持っていることもよくある。

だから、誰がどんな服を着てるとか、どんな顔をしてるとか、年齢が何歳だとか、男性か女性かとか、どこの国の生まれかとか、学歴とか、経歴とか、そんなところで人を判断したくない。

そのための意思表示として、僕の服装は存在している。

人間は弱い生き物だ。

つい美しい見た目に騙され、流されてしまう。

それを本気でふせぐためにはよほどの覚悟が必要だ。



そして僕は、いつまでも田舎者でいたい。

高校で名古屋に出て、

大学で横浜に出て。

少しずつ都会の空気に触れてきた。

でも、少年時代に泥だらけになりながらバッタを捕まえたり、相撲をとったり、田んぼで遊んだり、クワガタを飼ったり、スイカをまるごと食べたりしていたときの「初心」を忘れたくない。

東京でシュッとして垢抜けたり、

「イケてる」スタートアップを経営したり、

六本木のビルの最上階に住んだり。

そんな人にだけは絶対になりたくない。

老人や子供をちゃんと思いやったり、

人の悲しみや苦しみに寄り添ったり、

悔しいときは泣いたり、

誰かに裏切られようとも人を信じ続けたり。

そういう「人間臭い」人間でいたい。

そのための象徴として、僕の「イケてない」ファッションは存在する。

最先端なものとか、

かっこいいものとか、

人から称賛されやすいこととか、

そういうものに安易に走らないよう自分を戒めなければならない。

だから僕は今日も、クソダサい服を着て、相変わらずどうしようもなく猫背で、うまく行かないことばかりで泣いてばかりな人生を、必死に生きる。


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