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政治的なメッセージを含むお笑いについて。

ウーマンラッシュアワーさんがTHE MANZAIに出て、

政治的な漫才、権力者を批判する漫才をして、

ネットが炎上する

っていうのがまた今年もあった。

で、茂木健一郎さんがウーマンラッシュアワーを称賛するっていうのもまたあった。

この茂木さんの動画を見てたら僕も色々思うところあったので、noteを書いてみることにした。

茂木さんは、

「日本の笑いはオワコン」

ってツイートして炎上するくらい、日本のお笑いについてよく色々言っている。

この動画でも、

「日本のお笑いは身内ネタが多すぎる」

って言ってて、

「日本の社会は濃密な人間関係の上に成り立っているから、

その難しい人間関係を笑いにする文化が成立している。

でもそんな笑いばかりになっていて、

先輩芸人と後輩芸人の関係性をもとにした、業界内部の狭い範囲の笑いしかない。

人間が生きる社会には、難しい人間関係、以外の要素もたくさんあるから、

もっと笑いの範囲を広げよう!

多様性がなさ過ぎる!」

みたいなことを言っている。

この主張に関しては、

僕も同意である。

(同意、という言い方はおこがましい気もするけど)


で、茂木さんは

海外のお笑いは日本みたいに狭くなくて、

多様性がある。

日本もどんどん海外のお笑いを真似しよう。

みたいなことを言う。

僕は海外のお笑いは全然知らないので、

この部分に関しては言えることは何もないのだけど、

「たしかに、そうかも」と思うし、

茂木さんの話を聞いていると、

「僕も海外のお笑い勉強しなきゃ!」っていう気分になる。


で、茂木さんは、

その「笑いの多様性」の一つとして

「日本は政治ネタが少なすぎる!権力者を批判するネタをどんどん増やそう!」

ということを強く言ってるし、

ウーマンラッシュアワーさんもそう思っているんだと思う。

ここに関しては、僕は同意できるところが少ない。

茂木さんたちの議論には、

日本人の極端な政治的無関心、という重要な観点が十分に考慮されているとは言い難い。

日本国民は、政治的に無関心な人が大半である。

というか、公の場で政治的な発言をしないことが美徳である、という倫理感すらある。

なぜ日本人は政治的に無関心なのか?ということに関しては色々な人が色々なことを言っているけれど、

大きな原因として、

太平洋戦争に負けたこと、が挙げられる。

戦争中、ナショナリズムに熱狂した日本人たち。

国民一人一人の「政治的熱狂」があの悲惨な戦争を生んだことを反省した人々は、

「政治的な発言をしないことが美徳」的な空気を作った。

もちろん、そこには、占領したGHQ側の影響も大きい。

GHQの言論統制は、すさまじかったらしい。

戦後、文化の場での政治的な発言のほとんどはGHQによって抹殺された。

こうして、

政治は政府のお偉いさんたちに任せておけばいい、

軍事はアメリカに任せておけばいい、

的な空気感が生まれ

「経済」の一点突破にみんなが集中して

モーレツ社員とかが生まれたおかげで、

戦後日本は奇跡的な経済成長を遂げた。

もちろん、戦争に負けたことが、「政治的無関心」の原因のすべてじゃない。

「そもそも島国だから、日本人は政治的感覚が希薄で、、」的な言説まで話を遡りだすと切りがない。

とまあ、この辺はいろいろ議論があるところなので、置いておいて。

ともかく、

日本人は政治的に無関心である、というのは事実として正しいと思う。

友達の韓国の留学生とかみてると、本当にそう思う。

だから、日本には、

政治批判系お笑いのマーケットがほとんど存在しないも同然、だと思う。

ウーマンラッシュアワーさんの漫才を、

「うむ、なるほどなるほど、さもあらん、勉強になった、ウーマンラッシュアワーは政治ネタをやっているから偉いな」

的な視点でみる日本人は一定数いると思うけど、

「わはははははは!!!」

と声を出して笑う人ってほとんどいないと思う。

政治を笑いにしているのを目撃すると、

ほとんどの人は「え?これ大丈夫なの?」みたいな無意識が発動するようになっているのが日本社会であり、日本の歴史だから。

良くも悪くも。

この点は、欧米含め、日本以外の諸外国と日本が決定的に違う点である。と思う。

「政治アレルギー」みたいなものがやっぱり根強い。

子どもの振りかざす正義感程度のレベル感でしか政治問題を議論できない日本人が多い。他国と比べると。

だから、政治ネタは、文化的な土壌がないので、日本には市場がないも同然だと思う。

市場は顕在化していないし、潜在的にも存在しないんじゃないかな。

イギリスで大笑いのコンテンツが、日本で大笑いを生むとは限らない。

日本には政治ネタを見たい人がいないから、芸人さんは政治ネタをやらない、っていうのは、経済合理性の観点から普通のことだと思う。

やっても儲からない。

儲からない(→食えない→生活できない)ならやる意味がない。

ってのが、僕らが生きる資本主義の原理だと思う。


政治がタブーな日本社会をお笑いで変える!というアプローチも、たぶん不可能であるし、ほとんどの人はそれを求めていないんじゃないかな。

史上、

文化は社会の影響を受けてきた。

文化が社会に影響を与えた例ってほとんどないと思う。

社会→文化

である。

文化→社会

ではない。

(ことが多い。)

だから、今の日本で政治を風刺するお笑いをぶち上げても、

政治タブー社会を変えるのはほとんど不可能に近いのではないか。と思う。


で、(ここからが僕の言いたいことなんだけど、)

もし、日本の政治的無関心を、お笑い(を含む文化の力)を使って本当に変えたいのなら、(僕自身は、日本の政治的無関心を変えたいとも変えたくないとも、なんとも思わないけど)

直接的な政治批判はむしろしないほうがいいと思う。

たとえば、

宮崎駿さんのアニメって、

社会課題を学びたい!っていうのを目的に見る人は少なくて、

ワクワクしたい!面白いストーリーが見たい!的なモチベーションで見る人が多いと思う。

でも、見終わったころに気づいたら、

「自然は大事!」とか「戦争はだめ!」みたいな価値観を植え付けられている。

ああいう感じで、

超面白コンテンツの中に、

ソーシャルグッドの牙を忍ばせて、

気づかないうちに刺す、みたいなのが、日本マーケットには向いているんじゃないかなあ。

普通にエンタメとして楽しんでいたら、急にハッとさせられる、みたいな。

何かしらの政治的なメッセージや、社会に対する問題提起は、

直接言われるよりも、

間接的に「気づかされる」という体験をデザインしてあげるほうが、

人間の行動を実際に変容できる気がする。

し、僕もtiktokで動画作るときはそんなデザイン設計をいつも意識していて、

たまにこっそり社会への問題提起を忍ばせていたりする。(これが刺さるとめちゃめちゃ気持ちいい)

村上春樹さんの小説たちにもそれに近いものがあると個人的には解釈していて、

彼の『1Q84』とか、

別に政治的なメッセージを受信するために読んだわけじゃないのに、

気づいたら村上春樹さんの政治的なメッセージを受けとってたりするじゃん。


安部公房さんの『方舟さくら丸』とか

村上龍さんの『希望の国のエクソダス』とかも、

ストーリー自体が楽しくワクワク読んでいて、気づいたら政治的なメッセージなり、社会への問題提起なりを受け取ってしまう、という点において、

『1Q84』に類するものと言える。

っていうか、小説で例示しだすと、たくさんありすぎてきりがない、ということに今気づいた。笑

ああいう技術って、日本ではお笑い以外の領域のほうが進んでいるのかも。(特に、「小説」という媒体が得意としてきた技術なのかもしれない。)


時と場合によっては、

コンテンツは、人間の無意識に直接訴えかけることができるので、

政治家の演説とかよりもよっぽど、

個人の心に大きな影響を与えることができる。

論理をメタで管理する情念のとこに触れられるから。


そうそう、ついでに話が逸れるけど、

太平洋戦争以前は、

日本人の、

文化における政治的発言をタブー視する価値観

ってそんな強くなかったんじゃないかな。

江戸時代に流行した狂歌たち、例えば、

「白河の清きに魚も棲みかねて もとの濁りの田沼恋しき」とか

「泰平の眠りを覚ます上喜撰 たつた四杯で夜も眠れず」とかって、

お笑い的にもクオリティ高いし、

民衆はこんなに政治的なメッセージを平気で日常的に送受信してたんだって思う。

あと、江戸とか明治のころは、

歌舞伎におけるお殿様への政治風刺

とかも結構強烈だったはずで。

そう思うと、やっぱ太平洋戦争とその前後の事象が、

現代に与えている影響はかなり大きいのかも。


今回は以上。

ちゃんちゃん。

あなたがサポートしてくれると、僕の怠惰な生活が少しだけ改善するかもしれません(保証はできませません)