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「8番のりば」は「8番出口」の革命を継ぐに値する続編か?[ゲーム批評のようなレビューのような]

いやあ、急に発売されて驚きましたね。8番のりば。
前作8番出口がその秀逸で革命的且つ低コストなゲーム性によってホラーゲーム業界に大変革を引き起こしてから半年。発売日の事前発表無くサプライズ発売とは中々イケてるじゃないですか。
元々私は8番出口をかなりやり込んでいまして、やり込んで全異変を暗記すれば基本的に2分未満で1回クリアできるので、今日の体調の指標と終盤の乱数運を使った占いと景気づけみたいなテンションで毎日遊んじゃってるんですよ。
いやー、8番出口大好き。そんな私なので当然、続編が出たぞとなればウッキウキで買って、遊びましたとも。楽しかったです。

ですがその体験は、「8番出口の続編」ではありませんでした。

このnoteでは容赦なくゲーム内容に言及していくので(異変一つ一つの内容には触れないようにしていますが)、未クリアのプレイヤーは可能な限り読まず、そっと引き返して異変を見つけたくれると嬉しいです。











聞こえてくるぞ ネタバレの足音が
















バラすざんす。

そもそも根本的なところとして、ゲーム性が本当に全然別なんですよね、まず。
そこは最初からアナウンスされていたんですが、正直想定以上の激変でした。

そもそも8番出口というのは「異変を探す」という行為によって、常に不協和感を生み出すLiminal Spaceの文脈によって、そして「絶妙に分かりにくいものと気味の悪いものが混在した異変」によって、異変の無い時間でも常に異変に付きまとわれている感覚を実現したゲームなんですよね。
自分の内側にある不完全性が、異変を完璧に見つける事のできない己が、その無力さが「次の瞬間に呑まれるかもしれない恐怖」と「自分の感覚を信じる事すらできない恐怖」を生み出す。
そしてそれ自体数少ないゲームオーバー系異変も気がついてから反応するまでに時間があったり、深入りしなければ起爆しない内容である事によって、あらゆるゲームオーバーは「自分がやっちゃった」事になる。ゲーム側から不愉快な展開を押し付けられるのではなく、直感すらもが「あー今やっちまった」と断言する程に理不尽さの無い展開によって、恐怖が怒りにも不快感にも転じる事は無く、内面から湧き上がる疑心暗鬼に安心して飲み込まれる事ができる。

「ゲーム性は違うけど8番出口の続編だよ」と聞いたプレイヤーの殆どは、多分、そういった価値を別ベクトルから模索したようなゲームを期待したと思います。少なくとも、私はそうでした。
それで出てきたゲームは……まあ、なんというか、普通で古典的で伝統的で、ここまで語ってきた内容なんて全く関係ない代物だったんですよね。
「ゲームシステムが変わった」とかじゃない。根本的な価値の捉え方が、全く変わってしまった。故に「続編じゃない」。

古典的なホラーゲームの大半は、「怖い事が起こるから怖い」が主軸じゃあないですか。
そこに「考えると怖い考察に辿り着く」だとか、「いつ来るか分からない恐怖」があっても、結局プレイ中に恐ろしく思えるのは「怖い物事と対面した瞬間」というのが古典的なホラーゲームのやり方なんです。
今作8番のりばは、その昔ながらのスタイルに、何のひねりも無い形で回帰してしまっているという印象が非常に強いです。というか、単なる事実として断言していいレベルなんじゃないでしょうかね、もう。

ある意味、これはものすごく的を得た感想だったんじゃないかと思います。
メイドインワリオって要は、目の前で続々と起こる出来事そのものに対してひたすらリアクションを返し続けていく、ってゲームじゃないですか。
それって乱暴な事を言ってしまえば、構造は多くのホラーゲームと同じなんですよね。化け物が現れる、怪奇現象が起きる、正解の答えを選べば生き残って、逃げなければ死ぬ。目の前に出来事が提示されて、怯えながら正解を選ぶ。
たまに雰囲気出しの怪奇現象があって、それはスルーしても良かったりするとはいえ。多分「メイドインワリオみたい」は限界までボカすように言葉を選んだ「普通のホラゲじゃん」なんです。

要するに、8番のりばはそういう、「目の前で起こった問題に対処するだけの普通のホラーゲーム」になってしまっているんですよ。
恐怖演出jumpscareが発生して、解法を選ぶ。昔ながらの、何処にでもあるホラーゲーム。
そうなると、連鎖的に問題が溢れ出てくるんです。

まず、Liminal Spaceというものの魅力が鈍ってしまう。
元々8番出口のアイデンティティでもあったLiminal Spaceというジャンルは、言うなれば「見慣れたものがどこか超現実的ですらある違和感を伴って存在する」という現象が人の持つ普遍的な感性と化学反応を起こして「きしみを上げる」もの。
深夜三時の冷たい空気、何処からか風の吹く一見閉ざされた無限の廊下。僅かな「きしみ」に耳を傾けて震える哀れな子羊の前でトランペットを吹き鳴らし、出口を指して闊歩するが如き無粋。
人の内側にある違和感が滲み出る曖昧な恐怖に、「こうあれ」という形を与えてしまう行い。直接的なjumpscareというのは、そういうモノなのではないでしょうか。
恐怖の主題がLiminal Space性から外れ、その部屋はただの背景になる。恐れるべきものはただ一つ、目の前のクリーチャーのみ。

すると、開発規模の問題が顕在化する。
目の前のクリーチャーの恐ろしい動作は、一体誰が作るんですか?
誰がどれだけの予算と時間と技術を投じて、素晴らしいクリーチャーをデザインするというのですか?
この世で一体誰が、見覚えのあるアセットの、個性を消したゾンビ用汎用歩行モーションに恐れを抱くというのですか?
低予算、個人開発、短期間という枷の中で、異変の類を「それ単独で恐ろしいと思えるもの」に仕上げるなんて事は、はっきり言って無理難題でしか無い。

この点については、前作はある意味非常にハックな方法で回避していたんですよね。
前作はそもそも、「異変を探している時間そのもの」がメインなんですよ。
プレイヤーが恐怖を感じるのは、あくまで異変を探している時間そのものであり、ありもしない異変に疑心暗鬼になって震えている時でしかない。
異変は「答え合わせ」の機能が主であって、それ自体は恐怖ではなく違和感さえ与えられればいい。
間違い探しというゲーム性は異変自体を擬態という枠組みの中に押し込め、それによって小規模で動作を伴わず既存のオブジェクトの改変で済むような異変が多くなる。
結果として、8番出口は非常にハイセンスなバランス感覚を伴ったゲームに仕上がっていました。
その一方で、即死系の異変の死亡時演出が非常に予算の掛かっていない仕上がりであった事も、プレイヤーの方ならご存知でしょう。

しかし、そういったゲーム性を助ける枷の数々は、こと8番のりばにおいては全て失われています。
異変を明確にプレイヤーに提示するゲーム性によって、それは隠れる必要性を失い、より自己主張の激しい形へと変化しました。そして同時に、プレイヤーの内面で恐怖心を生み出させるゲームシステムではなくなった事で、演出自体が恐怖を与えなくてはならなくなってしまいました。
これはダイレクトに、より予算と時間と労力を要求する仕様である事を意味します。

前作であれば「見えづらい場所から現れる事自体が価値」たれたものが、「それ単独で演出として完成しなくてはならない」という領域までハードルが上がってしまい、一つ一つのモーションやモデルにもより高い品質が要求される。
しかしやはり個人開発。汎用アセットでないモーションは人間味の無い、具体的には全くブレないシンプルな関数の描く曲線で動作しますし、そうでないモーションはアセットストアで幾らだったんだろうという感じの、個性を消して作られた「既製品らしい既製品」。Liminal Spaceのリアリティが違和感を、そして不快感を生むという作風からは程遠いリアリティの欠如。もちろん怖さなんて全く感じられません。
更にはこのゲームシステムの改変によって、「何も無い時間」が「何も無い時間である」と確定してしまった。そうなると、前作では不安を掻き立てる違和感を演出していた時間も、今となってはプレイヤーに対して「あー、インターバルを挟まないと忙しないし尺も足りないし驚かないからそうするんだね」と察する余裕さえ与えてしまいます。

8番出口を8番出口たらしめていた要素を捨てた、では済まされなかったんですよ。このゲームは。

一見すると、ただ「8番出口っぽくしている」要素であったものたちが、実際には短期間低予算個人開発という多くの障害を乗り越える最大の武器であった。
それを捨てて同じような水準でゲームを作って、すると残されたものはただのアセット依存度が高い凡百の低予算ホラーゲームでしかなかった。
正直に白状します。8番のりばを単独のゲームとして見ると、面白いと言うのは本当に難しいです。率直に言うと、駄作です。
目の前の課題をこなしていくだけの、そういうゲームでしかなくなってしまった時に、それ以上の魅力を残しているとは言い難い代物でした。

それでも、それでも。
このゲームを楽しんでプレイしたのは、事実なんです。

異変の中には幾つか8番出口で登場した異変のセルフオマージュのようなものがありまして、これがまた単に「進研ゼミでやったところだ!」と楽しめるだけじゃないんですよ。
具体的にどの異変だという言及は避けますが、セルフオマージュ元との解法の差が演出として活かされているんです。前作を何十回もプレイしたからこそ、この異変は楽しめました。まあ、これが怖い異変かと問われれば微塵も怖くないんですけど。

いつもの「おっさん」は前作と変わらず、普段はプレイヤー達の憩いのオアシスです。
前作同様のバーコードハゲに、前作同様妙に引き締まった体つき。そして何故彼は靴下を履いていないのでしょうか?
活躍が増えた嬉しさ、プライスレス。です。
全異変コンプリート時の演出も、なんとなく察しはついていたとはいえ非常に素敵なものでした。

要するに、これは8番出口のファングッズなんですよ。
8番出口というゲームを楽しく遊んだプレイヤーの為の、もうちょっと長くこの世界観に浸る為のアディショナルタイム。
アニメのDVD限定特典映像なんかにも非常に近しいものを感じます。

本編では非常にバトルシーンが面白く、それがメインの魅力とまで言えるようなアニメの、円盤限定特典アニメ映像。
その特典映像では主たる魅力のバトルシーンも、躍動感あふれる作画も全く出てこない。ただ主人公とヒロインがラッキースケベをしたりライバルが飯を食ったり、日常回や前日譚が映像化されている、そんな特典映像のような。
「今後続いていく8番シリーズの2作目」という作品でもなければ、そもそも8番出口からゲームとして独立してすらいない。
8番出口のおまけ作品として、楽しめるゲームだったのではないでしょうか。

8番出口を既にプレイして気に入った人は購入して。
そうでない人は、まず8番出口を購入して、是非プレイしてみてください。
8番のりばがゲームとして面白いかは正直アレですが、8番出口に関しては本当に、非の打ち所のない傑作ですから。

そして、作者は8番シリーズから離れるそうです。

これもまあ、さもありなんと言いますか、「そうでしょうね」と言うべきか、ともあれ賢明な判断だと思います。
8番出口というコンテンツが革新性、独自性、そしてあまりに無駄のなく洗練されたシステムに強く支えられたコンテンツである以上、これ以上続編を出した所で今回の8番のりばの様に「初代の魅力を活かしていないなにか」になってしまうか、或いは8番出口のちょっと舞台変わった版になってしまう可能性が極めて高いでしょうし。

Liminal Spaceというアイデンティティに価値を持たせ続ける為には、「ゲームシステム的な表層」を形成してはいけない。
内面から湧き上がるLiminal Spaceらしい恐怖をその主体とし続ける為には、恐怖演出の存在しない空白の時間に価値を持たせ続けるゲームシステムでなくてはならない。
開発規模の都合上、演出そのものを主体とすると細かい作り込みを行えない点が如実に壁となり、結果としてその瞬間から凡作未満に堕ちる。
そんな制約の中ではもはや既に発売された8番出口こそが最適解のゲームとなってしまう。グラフィックのみを差し替えた焼き増しのゲームなんて世に出すものじゃあない。
毎作毎作の様に、この既に生み出された最適解を越えうる可能性を提示するなんて、はっきり言って正気の沙汰じゃない。無理や無謀という一言では済まされない所業だ。

それでも。

既に、ホラーゲーム業界に、8番出口フォロワーという種は撒かれた。
人の内側から恐怖心を引き出す手法が、世界に一つ増えた。
その上、最高のヒット作品が一つ生み出された。私も、ハマった。

なーんだ。

もう既にさ、最高のハッピーエンドじゃん?












これは完全に余談なんですが、私結構日常で怪異っぽいものを見ちゃってるんですよね。
深夜、一人で歩いている時に、足元から自分の影とは別にもう一本、大きくて姿勢の違う影が伸びていたり。勿論振り向いても、誰もいないんです。
もしかして、こういうので慣れていない人だったら、結構怖く感じたりするものなんですか?

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