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変わりゆく私

少しずつ秋を感じることが多くなってきた。季節の変化を感じる。私自身も、自分の変化を感じることが多くなってきた。少し前の自分とは明らかに変わってきている。1週間前、1ヶ月前、3ヶ月前になると、もうまるで違うとさえ思う。こんなことは、これまでになかったように思う。

生まれてきてから死ぬまで、その人の人生がある。私の人生は年齢的には前半が終わり、後半に入っている。とはいえ、人生は、1年が365日あり、1時間が60分あるようにはいかない。いつ終了となるか分からない。そう考えると、手も足も出ないような気持ちにもなる。けれど、人生は続いていくかもしれないのだ。

人というのは不思議だな、と思う。なぜ、色々なことに理由が必要なのだろう。ただ、生きるだけでは飽き足らない。生まれてきた意味や、ここにいる理由を知りたくなる。それを知ったら、晴れ晴れと生きていけるのだろうか。

20歳の頃、ぐるぐると同じところで考え続けて前に進めなかった時「もう色々なことを深く考えるのをやめよう」と思ったことがある。「何も考えず、ただ生きるということでいいじゃないか」と思った。けれど、同時にさびしくなった。考え続ける私がいなくなることにさびしさを感じた。そこで、また思ったのは「そうは言っても、どうせまたぐるぐる考えてしまうから、いいじゃないか」ということだった。そして、50歳を過ぎても、結局ぐるぐるしている。

ぐるぐるしながら、少しずつ場所は移動してきたようで、景色はずいぶんと変わってきた。環境も変わった。季節のように、穏やかな春、開放的な夏、憂いのある秋、閉ざされていく冬を繰り返しながら、時にはこの世の厳しさを知らされたこともあった。

世の中にはたくさん人がいる。私がすべての人を知っているわけではない。そして、すべての人が私を知っているわけではない。さまざまな人がいる。私が自分で見たり聞いたり話して得られることには限りがある。元々の性質なのか経験からか、基本的に私は人をあまり信用していないような気がする。かと思うと、簡単にだまされるようなときもある。自分のことも信用していないのかもしれない。そして、活字になっていることの方が説得力があるように感じてしまいがちだ。人そのものを、私はしっかり見ているのだろうか。

年齢を重ねるにつれて思考が固まってくる傾向はあるだろう。何も知らないうちから、決めつけてしまうことも多い。「私は人が嫌いだ」と思っているけれど、それも本当だろうか。そもそも、決まっていることなどあるのかな。

1回の人生の中で、生まれ直すことはできないけれど、中身の自分は形がないのでなんとでもなれるだろう。そんなことを思うのはおかしいだろうか。ここまで生きてきて、これまでのことが夢のようだ。実際に体験してきたことがずいぶん昔に感じる。少し前のこともすべてが過去になっていく。そして今を生きている。悲観的なことではなく、これから、色々なことが変化していくだろう。私自身も変化し続けるだろう。今の私の常識も、非常識になっていくだろう。かと言って、今の私を否定することはない。そして、ほかの人に対してもそういうことだろう。全部を受け入れることは、それはできないとしても、全部を否定しなくていい。

未だ何をどうしたいか、はっきり分からないけれど、なんとなく期待感を持って過ごしている。思いもよらないところですっきりした表情で過ごしている私が見える。…ような気がする。