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芥川龍之介考 # 8

☆点鬼簿 / 大正15年1926年雑誌「改造」第八巻第十一号 掲載

点鬼簿とは亡くなった人を列記する簿冊のこと。
この不吉なタイトルに当時の読書子達は芥川に死の影を見ただろうか?
これは小説と言うよりも随筆に近い。
全4項からなる原稿用紙11枚強の僅かな短編で自分の身内の今はもう亡くなってしまった実父、母、姉に対する回想である。
創作チックに書かれているから小説とみる向きもあるし、実際の身内のことを赤裸々に綴っても小説は小説だと息巻く御仁もいるが論争嫌いの小生のこと。
どうか、絡まないでいただきたい。

現在では、芥川は発表の前月にかなり苦闘しながらこれを書いたことが明らかになっている。
体調が優れず平穏に小説を書けるような精神状態ではなかったようだ。
又、この年は鵠沼海岸近くの別荘に一家で田端から一時的に移住して都会の喧騒から逃れて執筆活動をしていたと言う。
その時のことを小説化したのが芥川の生前最後の短編集「湖南の扇」に所収された「蜃気楼」だ。
ところで、芥川は生前に延べ8冊もの短編集を刊行しているが、其れまでは約一年からどんなに開けても一年半だった短編集の刊行スパンがこの時期は3年もの期間出されていなかった。
これは矢張り神経衰弱や数々の内臓疾患により健康面が優れていなかったこの時期の芥川を象徴する出来事ではなかっただろうか。
芥川最後の短編集「湖南の扇」が刊行されるのは昭和二年1927年6月の事である。
この時期の芥川は極端に創作数が減り一作を作るスパンも長期に及んでいた。
そして、この第8短編集にはこの「点鬼簿」は芥川は選んでいない。
余りにも赤裸々過ぎるからか、何がそうさせたのかは定かではない。
この短編集自体にあとがきも何も付されていないから分からず終いである。

点鬼簿は先ず、母の回想から始まる。

自分の母は狂人だったーー。

こんな衝撃的な独白から始まる。
そして、養母と芝の母の家に行って母の居る二階に母に挨拶に行くといきなり持っていた長キセルで頭をはたかれたと告白するが、僕の母は如何にも物静かな狂人だったと優しく回想するのである。
芥川や2番目の姉ヒサちゃんと画を書いてとせがまれると決まって母は狐顔の人物像を墨で描いてくれる、とある。
それから3日3晩母は昏睡状態が続いた。
芥川はヒサ姉が殆ど泣き続けているのに最初は自分も泣けたのだが姉ほど泣けなかったが、泣く真似をしていたと言う。
そして自分が心から泣け無ければ母親が死ぬ事など無いと自己暗示に掛けていたと言うが3日目に母は逝った。
死ぬ間際、一時的に正気に戻った母は2人の子を観てさめざめと泣いていたと言う。

11月28日 母の命日と戒名の帰命院妙乗日進大姉だけは終生忘れなかった。
それを誇りに思うと点鬼簿の母の項の結びに書いている。

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