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エモクロアのルールブック雑感


はじめに

 正直、舐めてた。
 日頃、制作者陣営のいわゆる対話型シナリオだとかエモシナリオだとか配信を見てて、CoCでやるな、ルールブックを読め!、こんなのCoCどころかTRPGじゃない!とか思ってたし、事実そう言った配信やシナリオにクトゥルフ神話TRPGはクトゥルフ神話TRPGではなくなっていった。

 しかし、エモクロア、これはそういった層を確かにターゲットにした王道をゆくシステムだ。
 どうせ、奇を衒ってTRPGとして選択という制限をかけてかつて某大手配信者のデザイナーが手掛けたTRPGやボードゲームになるだろう、TRPGのシナリオと小説を勘違いした作品になるだろうと思った。

 蓋を開けたらそこには今までの歴史としてのTRPGの王道をしっかりと踏襲し、それを現在の配信やそれっぽいコミュニケーションとして利用したいユーザー向けに特化しった最高のTRPGが待っていた。

以下、その感想を示す。

ルールに関する感想

 このルールを読んでクトゥルフ神話TRPGの色が強いと言った声をよく聞いた。
 確かに、能力値はBRPシステムの能力値を日本語に変えただけだし、正気度やクトゥルフ神話技能を〈∞共鳴〉に置き換えたもの、技能も書き換えと言ってしまえば納得が行く。
 しかし、このエモクロアのルールはクトゥルフ神話TRPGだけではない、様々なTRPGの’’ユーザーに受けたであろう’’ところや’’面白いアイデア’’を踏襲している(多分。そうでなくても既存でないアイデアの方が珍しいので)。

 例えば、技能の〈奥義()〉や感情などはシノビガミ、判定方法はサタスペ、Storytelling System、クトゥルフ・ダークなどを良い塩梅に混ぜ合わせたものとなっている。
 文字通り、それらのTRPGの良いとこ取りだ。

 BRPのように直感で分かるが定義とは僅かに乖離があり、シノビガミやサタスペのような結局のところデータゲー故の煩雑さといった欠点をそれぞれが補っている。

 そういったところを鑑みて、まさに現在のユーザーをターゲットにしたTRPGとして完成されていると言えるだろう!

気になった点

 しかし、モノが良くても気になった点がいくつかある。

 一つはデータ面が薄いところだ。データとはすなわちそのTRPGの世界観を構成する要素であり、そこがDL同士で分かれてしまうようなものであるとDLの負担は増えるし、現在の何でもPCを継続させたい層にはDL同士での同一データへの矛盾や差と言ったものは障害になるだろう。
 ただ、データを薄くすることこれは先述の様に人気TRPGの煩雑さを取り除いたものなので良いところだ。しかしながら、あくまで“薄い”のであってデータを脱却していない。もし、データを削るならとことんまで削るべきで、CoCで何でもやろうとしている層は新しいルールを会得しようとせず、怠惰であるのでデータを削るならば「共鳴と《怪異》」の項目をもう少しバッサリと削ったり、戦闘に関してを、例えばクトゥルフ・ダークに見られるよに一定の効果はあるが根本的には解決できないくらいの大雑把なものにしても良かったであろう。
 また、クトゥルフ神話TRPGに固執する人の人気を獲得すると言う意味ではルール上のデータはもはや無に近くすると同時に怪異についてはより詳細に、データを盛ったほうが図鑑的な楽しさも生まれるのでそうした方が良かったのではと感じた。

 ニつ目、これは普通に致命的だが、用語の定義間違っている。
 エモクロアの中ではその用語はそう定義し、他とは違い独自のものであるのならばそれはその旨を書くべきだし、せめて用語の名前を変えるべきだ(某F社もやらかしているが)。

 まず、ロールプレイ。大辞泉にはこのように定義されている:

実際の場面を想定し、さまざまな役割を演じさせて、問題の解決法を会得させる学習法。

 一方、エモクロアはこのように定義している

ロールプレイとは、キャラクターそのものを演じ、動かすことを言います。
役割演技。そのキャラクターに成りきって演じたり、その行動を描写したりしながら、会話の中でキャラクターの感情や個性などを表現すること。

 また他のTipの方にもっと多く様々な類型が示されているが、確かにどれもロールプレイではあるが、意味が異なる。辞書にあるようにロールプレイとは役割としての意味合いが強い。勿論、演技やなりきりと言った意味も孕んでいるがニュアンスとしては役割を演じることのように思える。
 事実、海外や大手英会話教室(イ○オンとかE○C、ジ○スとか)だとロールプレイの授業は役割を果たせたかが主な評価点であった。
 つまり、辞書的にはなりきり演技の意味合いも含むが口語的には役割として用いられることが多い。
 これは70年代のRPGでもロールプレイは口語的に役割のニュアンスが強くこのことはD&Dよりも「なりきり」を重視して発展したRQ(BRP基幹)でRPGは

ロールプレイングゲームと言う言葉は、このようにキャラクターになりきって、役割(ロール)を演じる(プレイ)ことから生まれた言葉です。(出典:Role&Roll sp3 訳:星野富美男 協力:坂本雅之)

と記されており、なりきりとロールプレイと分けて書かれていることからも伺える。また、D&DからRQの流れもそうだがRQからCoC、ヒーローシステム、Storytelling System、アンバーダイスレスRPGとできるだけなりきりを重点になっていったことからも伺える。

 ここで誤解して欲しくないのはこの手の「ロールプレイは役割の意味が強い」ということを示すと「なりきりや演技の意味合いもある!」「TRPGからそれを排除するのは間違っている!」とAll or Nothingでしか語れない意見が来るが、あくまでロールプレイは役割の意味が強いだけで、仮に役割に意味を限定した所でTRPGにそもそものエッセンスとしてなりきりが含まれているのだからかつての馬場理論の様になりきりや演技を排除するようなことは一切ないと言うことだ。

 次にハンドアウト。手元の英和辞典でも英英辞典でもhandoutで調べてみると分かる。ハンドアウトとは「配布資料」もっと広く言うなら「渡すもの」と定義される言葉だ。
 一方エモクロアではこのように定義されている:

シナリオの事前情報や、共鳴者に付与される役割や設定などが記載された配布物のこと。シナリオによってその記載内容は千差万別です。

 エモクロアの定義はみて分かるようにシナリオの事前情報とPC設定の意味合いを強くし、そういった類のものに限定されている。
 これはハンドアウトと言う言葉をあまりに狭義なものとして捉えっている。
 TRPGにおけるハンドアウトと言う言葉の起源は何であろうか?
 アメリカのTRPGプレイヤーである理科教師であり、ユーチューバーのMichael Fryda(現在アカウント消去済み)のRPGの歴史解説によるとクトゥルフ神話TRPGの初のサプリメントとなる『ヨグ=ソトースの影』がTRPGにおける起源と解説しており、ケイオシアムの公式アカウントも当時、その発表に:

As @mrfryda notes, a groundbreaking distinction of 1982's Shadows of Yog-sothoth release was the inclusion of handouts to give the players as the investigation unfolds – now a staple of Call of Cthulhu adventures.

訳「mrfryda氏が指摘するように、1982年に発売された『ヨグ=ソトースの影』の画期的な特徴は、調査が進むにつれてプレイヤーへのハンドアウトが含まれていたことで、これは今では『クトゥルフの呼び声』のアドベンチャーの定番となっています。」

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といった反応をしており、そのことを肯定していた。
 ではこの当初のハンドアウトとはどのようなものであったのだろうか?
 文にも書いてある通り、そのまま資料だ。要は辞書そのままの意味でのプレイヤーに渡す資料のことをハンドアウトとされていた。
 以降、ハンドアウトと言ったらそのまま資料を指す言葉として一般的に使われていった。
 当時からPCの設定をプレロード以外に与えてプレイヤーに作らせるシナリオは存在したが、その場合は設定だけであっても「サンプルPC」と言う風に表記されていた。勿論、ハンドアウトと言う括りの中にサンプルPCと手紙や新聞などの資料をまとめて提示するのも存在し、先述のように配布資料すべてを指す広い意味での言葉である
 ただし、その場合でも、例えばクトゥルフ神話TRPG7版のデザイナーであるポール・フリッカーなどは「マップ、キャラクター設定、ハンドアウト」とそれぞれ別に区分分けし、ハンドアウトとPC設定は緩やかに分けられて用いられている。

目的は何なの?

 このエモクロアについて「目的が書いてない」と言う評価はよく見かける。
 しかし、それは違うと考える。エモクロアには以下のようある:

その事件に巻き込まれる「登場人物」を、あなた自身が作り、操り演じ、
物語を当事者として体験するのが、この『エモクロアTRPG』というゲームです。

 つまり、事件に巻き込まれる体験、もっと言ってしまえばセッションそのものが目的だ。
 「いやいや、そんなの目的じゃない。それはセッションの結果だ」と言ってしまえばそれまでだし、実際、これが目的かというと確かにおかしいところがある。
 なぜ、目的たり得ないか、ゲームとしての目標ではないからだ。
 クトゥルフ神話TRPGで言えば「神話の真実を公に晒し、時には神話生物やカルトを殺すこと」、サタスペであれば「依頼を熟して行き、亜侠から侠になること」、ソドワで言えば「剣と魔法を駆使し、危険に立ち向かい、その対価として報酬を受けること」と言ったものだ。
 事件に巻き込まれる体験、それはセッションの結果であり、このTRPGの目的ではない、それは正しそうに思える。

 しかし、考えてみてくれ、このエモクロアは動画や配信を見てろくにルールブックやサプリに目を通さないクトゥルフ神話TRPGをクトゥルフ神話TRPGとして遊んでいない層をターゲットにしている。

 もっと、主語を大きくしよう。TRPGをTRPGとしって遊んでない層をターゲットにしている。

 そういった人たちに取ってTRPGはゲームではない。エモクロアの制作陣が書いたクトゥルフ神話TRPGのシナリオを見てもそれは伺える。


 TRPGはゲームではなく、彼らにとってはコミュニケーションツールなのだ。

 ゲームとして共通の目標を持つ必要などないのだ。セッションそのものが目的、体験そのものが目的。なぜなら、これはゲームではなくコミュニケーションツールだから。教室で休み時間にダベるのに目的が必要だろうか?SkypeやDiscordの何となく入った作業通話での会話に目的は必要だろうか?そういうことだ、強いて言うなら会話自体が目的だ。
 つまり、ターゲット層に取ってTRPGセッションは休み時間の教室、相席食堂、Twitter、mixi、Discordなどのコミュニケーションを手助けするツール、取っ掛かりに過ぎない。

 そういった意味でエモクロアはTRPGではないのかもしれない。TRPCT、テーブルトークロールプレイングコミュニケーションツールとでも言うべきではないだろうか(テーブルトークとコミュニケーションて意味被ってない?)。
 因みにソード・ワールドもゲームの目的としては前述の通りだが、プレイヤーの役割としては「キャラクターを用いて、状況に応じて行動し、楽しむこと」とセッションそのものが目的というのに近い感じのことが書かれている。


まとめ

"ゲームは社会的な活動だ "とよく言われるが、ではなぜ多くのゲーマーは社会性に欠けているのだろう?それはゲームが盲目的に受け入れられてきたからかもしれない。多くの人がゲームに参加したのはある種の"部外者 "だったからだ。(出典『Play Dirty』John Wick著)

 エモクロアはもしかしたらTRPGではないのかもしれない。しかし、配信の最前線を走っている人たちが作っシステムであり、ターゲット層もあっている。今までのそうしたTRPGのようなルールの煩雑さは極めて少ない。
 システム公開とともにシナリオを大量投入するという(当たり前だが)何故か日本では行われていなかった手法を取っている。リプレイなのでルールブックを読まなくても何となくの雰囲気をつかめるサポートがされている。その上、全てが無料だ。オマケに利用規約も理想的。
 実際にまだ遊べていないのでわからないが、上記のような大きな欠点こそあるものの、かなり時代に即したTRPGであり、王道も踏襲している、きっと令和最高の和製TRPGになり、後世に良い意味で名を残すことTRPGとなるだろう。


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