見るということ

写真は目の前にある物体が写る。でも写しているのは本当はそこにあるそれそのものではない。
もう少し先にあるもので、先というか底というかなんと言っていいのかわからないけれど、別のもので、ずっとそれを見てきて、今はそれを撮っている。私だけでない、きっと写真家はみんな同じ目を持っていると思う。

子供の頃、父に絵の手解きを受けていた。それは技術的なことより感覚的なこと、ものの見方、の手解きだった気がする。

デッサンをしよう、と、飼っている金魚の水槽の前に座り2人で描いていた。当然わたしは目の前にいる金魚を一生懸命描くのだが、横を見ると父は全然目の前にある風景とは別のものを描きとんでもない色の空にはUFOが飛んでいた。

私がびっくりして観ていると、
誰が目の前にある金魚を描きなさいと言った?そこに座ったからと言って目の前にあるものを何も考えずに描けばいいわけじゃない。

あと、パパにはこの金魚と水槽のある景色がこう見えているかもしれない可能性もあるよ。自分が見えている世界が全てじゃないし、目の前にあるものの本当の姿はどんなんだろうって考えてちゃんと見なさい。

太陽は赤だとか言う色の概念や決めつけを辞めるように。
あなたにとっての赤は、パパに同じ赤に見えているとは証明出来ないでしょう。もしかしてあなたにとっての赤はパパにとっての緑かもしれない。

と言った。私はガビーン!!っと稲妻が頭に落ちた気持ちになって。
そこから一気に世界が変わったような気がした。

それからは目の前に広がる世界がものすごく自由なものに見えた。
小学校に行くのが本当に嫌だったけどその考え方で学校生活を俯瞰で見たら面白く、日常はファンタジーになった。

その稲妻は今でもなかなか効いていて、
私はそこに広がる世界を想像し写そうとする癖が抜けない。
そこにあるものは、それではない、
と思う。
いいんだか悪いんだか。



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