out of noise うつくしいこと

私はいつ、美しいことを習ったのだろう。

最近撮り始めた新作

out of noise は、

美しい

と思う感情がどこからくるのか、それは一体なんなのか?とずっと疑問に思っていた気持ちを形にしようと思ったのがベースにある。

私がおそらく2.3歳で、あいうえおも把握していない頃、母が花を見て、

綺麗ね

と、私に言った。それを言う母に、私は疑問を覚えたのを記憶している。
母にそんな深い意図はなかったと思う、自然を愛し情緒豊かな子に育てようと思う普通の親心だ。ただ、私の心の中は違った。

これが綺麗っていうもの、綺麗なものはこれなんだ。

と言うか、キレイってなに?なんでこれをキレイというのか?

綺麗と言う意味への疑問と、これから人間としてやっていくにはここをつまづいてはいけない、と言う容量良き末っ子根性が闘っていたのを記憶している。

そうか、これが綺麗ってものなのか、と時間はかかったが、花=綺麗、をインプットして、

(私は今でも感情を瞬時に出すのが苦手だ、口にするのは難しい。)

とりあえず、色々飲み込んで、

うん。

と頷いた。
そして私は綺麗と言う謎の定義を隅に置いたまま大人になった。
ただ、頭で考えることより、本能 が、うつくしいこと を察知するのだ。私はそこに混乱している。

私の中で 綺麗=美しい。同義だ。

日常で、フと目が美しいと記憶する瞬間は沢山ある。
夕焼け
道に刺す日差しからの長い影
すれ違う人の笑顔
風が吹き擦れ合う樹々の音
歩きながら見る自分の足元
塀の上を歩く猫
ドアノブを回すとき
揺れるカーテン
あなたの瞳
伏せるまつ毛
私を呼ぶ声

それらは私の前をしっかり横切り、私の時は止まる。

そしてまんまと私は、なんて美しいんだろう、と思う。

綺麗だな、と、スローモーションでその瞬間を覚えている。

そして美しいものは私の心に沢山溜まっていく。

私は思う。
おそらくこれは人間みんなが本能でずっとずっと感じている事だと。
写真家は、それをストップ!とシャッターを押し長時間見えるものにしているだけで、みんな美しいものは絶対に同じ頻度で見ている、勝手にそう思っている。

なぜそれにハッとするの?

私は誰かに美しいことを教えられたの?

美しいこと、それは一体なんなのか?

その疑問はずっと心の中にあるのだから、じゃあもう私がずっと見てきた うつくしいこと を撮ってみよう。
と始めたのが out of noise である。

だからこれは誰にでもある世界。

近いうちに色んな人に見て共有共感してもらえる様に、形にしていこうと思う。

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out of noise

電車から見る沈む夕陽、
風に揺れる葉やカーテン、
毛布の手ざわり、
グラスを持つ指、
見下ろす足元、
見上げる樹々、
髪が揺れ、
車のライトが通り過ぎ、
道に刺す長い影、
楽し気に話しながら歩く人とすれ違う瞬間、
脱ぎ落とされた服、
名前を呼ぶ声、
瞳の奥、
愛する人、

私は1人美しいものを見た気持ちになる。
全ての雑音が消え、時は止まり、瞬きをする。

美しいと思う気持ちはなぜ、どこから出てくるのだろう。
私はいつ、美しいことを習ったのだろう。

誰にも言わない私だけの美しい世界。でも誰にでもあるこの世界。

out of noise ステートメント




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