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胸一杯の

 女は左手の人差し指に毛糸を2回巻き付けた。右手に持ったかぎ針をできた輪の中に通し、新たな糸を引き出す。もう一度糸を引き出して作り目を作り、ふたたび輪の中をくぐって糸を引き出してから、針にかかった2本の糸を新たな糸で同時に引き抜いた。

 細編み。

 かぎ針編みの基本的な編み方のひとつである。
 女はこれといって編み物に長けているというわけではなかった。今日もひたすら細編みを続けているに過ぎない。

 輪の中に細編みを6目編み入れたら、糸の先端を引いて輪を絞る。これで最初の段ができたことになる。
 次の段は増やし目をする。手の動かし方としては同じ事だ。ただ、前段の1目に細編みを2目ずつ編み入れることで、1段6目だったものが12目になる。

 ため息をひとつついて、女は手を止めた。作り始めはどうしても肩に力が入ってしまう。2段めまで作ってしまえばあと2段、4段めまでは目を増やしも減らしもせず進むことになる。考えなくてもあとはしばらく手を動かせばいい。
 1段めの最後の目につけていたピンク色のプラスチックの段数マーカーを爪ではじいて、かぎ針を置いた。そのまま少し奥の方に置かれたカップに手を伸ばす。

 今日はあえて、喫茶店の一角で編み物をしていた。いつも通り自分の部屋で編もうかとも思ったけれど、気分転換が必要な気がした。窓の外に目をやると、駅に向かって行き交う人々が見える。商店街にも近い駅前の景色は年末の賑やかさに覆われていた。

 少しぬるくなった飲み物を口元へ運んだ。チョコレート風味のする、と謳われていたコーヒーは、ほんのりと甘い香ばしさを漂わせていた。立ち上る香りを一度いっぱいに吸い込んでから、少しだけ口に含んだ。

 ひさしぶりにものの匂いを感じた、と、女は思った。編み物で凝り固まり小さくなっていた肩が、コーヒーの香りを嗅ぐことで広がって、血液が流れていくような心地がした。
 思えば近頃は、ものの香りに気遣うこともできていなかったのかもしれない。それほどに女は凝り固まっていた。何度も同じ考えにとらわれ、状況を打破できず、己を責める日々が続いていた。

 ふたたびかぎ針を手に取り、編み物を続けた。
 1段あたり12目で2段編むので、24目。いいち、にいい、さあん、しいい、と数えながら細編みを進める。数えながら、わざと大きく息を吸ってみた。胸が大きく動くのを感じながら、自分に足りなかったのはこれだな、と思った。新しい空気を吸って、吐いて、また吸うこと。
 意識して吸ってみると、色々な匂いを感じた。自分の飲んでいるコーヒー、おそらく店の奥で焼かれている菓子のバターの香り、他の客が出入りするときに入れ替わる空気に混じる、冬の気配。

 オーナメントを、作っているつもりだった。
 卓上用の小さな白いクリスマスツリーには、銀糸の混じったグレーのオーナメントが映えるような気がした。

 「いいんじゃない。」

 自分のアイデアを伝えたときに、そう言われたのが決め手になった。

 最後の1段は減らし目になる。細編みを編む要領でかぎ針に2本の糸をかけたのち、それらを引き抜かずに次の目から新しい糸をもう1本引き出す。針にかかった3本の糸を同時に引き抜くと、前段の2目が1目になり、目を減らしたことになる。

 引き算ばかりしてるな。

 12目を6目に戻して、ひとつできあがった。綿を入れて、毛糸とじ針に持ち替えて6目をすくい、巾着のように絞れば、きれいな球体になる。
 まだ始末していない糸端を持って、目の高さでくるくると回してみた。午後の光を受けて、細い銀糸がきらきらと反射する。

 「約束まではしてなかっただろ。」

 男はそう言った。
 グレーの球体は、11個作ってあった。

 夕べは時間がなくて作れなかったからあと1個、12個くらいでちょうどよく飾れると思うの。あと1個作ったらツリーに飾って、ケーキも買いに行きましょう。

 さりげない、他愛ない提案に聞こえるように努めた。
 何日も考え抜いた台詞だった。
 言ったあとは胸が詰まって、呼吸がしづらかった。たぶんわざとらしく聞こえただろう。おそるおそる表情を確認しようと眼差しを上げる前に、男に言われた。

 約束まではしてなかっただろう。

 オーナメントをソーサーに置き、ふたたびコーヒーを飲んだ。両手に持ったカップはもうすっかり冷めている。それでも息を吸い込むと香ばしさが鼻をつき、飲み込むと苦みと酸味が舌を通過していった。

 どうするのが正解だったのかは、すでにわからなかった。
 薄暗い小さな部屋の中で、女は男のことしか考えていなかった。必ず訪れる別れの時間をどうやって引き延ばすか、そればかり考えていた。
 男を待つ時間を数え、男が去るまでの残り時間を数えていた。
 30㎝もないクリスマスツリーは一人で買いに行った。そういえばこんなの持ってたの思い出したんだ、と言ってお披露目した。

 ソーサーの真ん中に転がっていた毛糸のボールを脇にやり、カップを置いた。窓の外には相変わらず人通りが絶えない。
 ふと、女は異質な匂いがするのに気がついた。コーヒーとは少し違う、金属質の固い匂い。

 「ああ、そっか。」

 思わず声に出た。両手を鼻に持ってきて匂いを嗅ぐ。舌がざりざりしそうな鉄の匂いがした。手の甲を眺めると、爪の生え際に赤い線ができているように見えた。改めて、爪の辺りの匂いを嗅ぐ。自然と口端が緩む。もう一度、今度は大きく深呼吸するようにして、血の匂いを胸一杯に嗅いだ。

 銀糸の混じったグレーの毛糸のボールは、もうオーナメントにはならないな、と女は思った。かぎ針を使ってさっき絞った糸を緩めていき、目をほどいた。最後に編み目を引き抜いて終わった部分だけをほどけば、あとは糸を引くだけでするすると編み目はほぐれていく。
 編むのは大変なのにほどくのは一瞬だね。
 全部ほどいてしまうと、テーブルの上にはくねくねと縮れた糸だけが残った。片付けようか少しためらってから、そのまま残していくことにした。

 店の外に出ると、ひんやりとした外気が肌を刺した。思わず身を縮めたが、あえてもう一度深呼吸をして、冷たい空気を己の中に取り込んだ。
 冬の空気は冷たくて固くて、きらきらしてるみたいだ、と思った。
 きらきらした毛糸のオーナメントはもう要らない。そんなことしなくても私は大丈夫。あの人はもうずっと私のそばにいる。

 心は弾み、足取りは軽かった。
 手袋はせずにときどき指の匂いを嗅ぎながら、女は自分の部屋へと帰っていった。

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