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白い歯と、ワンピース。

 タグを切り取ったばかりのワンピースは少し石油の匂いがする。今日だけはそれをいい匂いだと思うことにした。水を微妙に弾きそうなぬるっと感もたぶん洗えば消えてしまうから。

 夏のはじめ、私は毎年ワンピースを買ってしまう。白かったり、黒かったりする、長めの、ほとんど切り返しのない自由なワンピース。誰にも会う予定のない日の遅い朝に、それに袖を通す。

 南の方で大量の雨を落としてきたはずの梅雨前線が、まだまだ足りぬと不満を窓に打ち付けている。外は薄暗いけれど、灯りを付けてしまうと昼間がなくなってしまいそうな気がするので、手元灯だけを付ける。それでも辺りには影ができて、私の周囲は異次元空間になる。

 白い糸を、左手にからげた。光沢があって、細くて、真っ白ではない、柔らかな糸。細くてするすると逃げて行ってしまうので、私はいつも小指に二回巻くようにしている。
 右手には、かぎ針を持つ。2/0号。2.0mmとも刻印されている。もっと細い針でもいいけれど、今日の自分にはこのくらいでいい気がした。固く締めたいわけではない。糸のてかりがなくならないように、でも甘くなりすぎない程度に。

 子どもの歯が生えたときのことを思い出す。

 よだれが増えてきた口の中、歯茎を触ると固いものに触れた。肉の中に埋もれていたものがゆっくりと頭を出してきているのを感じた。自分は毎日だっこしておむつを替えて乳を与えてだっこして寝かしつけておむつを替えて乳を与えて、同じ事しかくり返していないのに、この子は勝手に次の段階に行こうとしている。生き物を育てているんだと気付いた。

 くさりを3目編んで、1目で立ち上がり、裏山を取って3目細編み、折り返してさらに3目細編みして一段目を終えた。実際のものよりは少し大きいくらいだろうか。

 年の離れた弟も、息子も、娘も、たぶん私も、下の真ん中の歯から生え始めた。ピンクの歯茎の間から真っ白な小さな歯が伸びてきて、自分が噛みちぎられてしまう憂鬱と共に、どうやったらこれを虫歯にすることなく育てられるのかと神経質になった。まだ二本しか生えていないのに、乳児用歯ブラシを買ってきて磨いてみようとして、泣かれたり。

 そのまま、目を増やしも減らしもせずに、2段編んだ。外から見える部分はこのくらいの大きさだろう。さらに、1目ずつ減らしながら2段、綿を詰めて閉じてしまえば根元の部分までしっかりできあがる。
 編んでしまうと意外にあっけない。若い母親があんなに悩んだ、小さな小さな白いかたまり。

 貝殻の破片のような歯を二本だけ見せて、泣き叫ぶ口内の映像が浮かぶ。それを見ると私は慌ててTシャツをまくり上げた。まくり上げたのちに固定できるように、首からはいつも長い輪ゴムをかけていた。
 手早く授乳できるようにカップ部分が外せる下着。髪の毛は短く、でも後ろでくくれる長さで。お風呂場でひたすら手洗いすることも多いから、スカートは履けなかった。
 赤子が胸に食いつく度に、息を詰めて痛みに耐えた。小さな歯の使い方を知らない赤子たちは、容赦なく私に傷を付けながら乳を吸った。そうしないと生きていけなかった。

 再び白い糸を手にからげて編み始める。
 同じような大きさのものをあと3つ。少し尖ったものを2つ。輪で作り目をして平坦に編んでいったのち、垂直に下りていく形の、大きめのものを4つ、もう少し大きいものを4つ、

 「お母さん、今度はなに編んでるの?」

 帰ってきた娘が後ろから声をかけてきた。

 「歯。」

 「は?歯?なんで?」

 雨に濡れたランドセルを下ろしながら、彼女は素っ頓狂な声を上げる。

 「なんでだろうねぇ。」

 自分でもよくわからないので、私はそう答える。

 「やっぱり変なお母さん。」

 そう言いながら娘はおやつを求めて台所へと向かった。

 今日のプールは雨で中止だったとか、体育館でドッヂボールしたらだれそれが腹を立ててだれそれを泣かしただとか、給食でおかわりを二回しただとか読書カードがいっぱいになって先生に褒められただとか、聞いてもいないことを次々とまくしたてながら、冷蔵庫を開けたり閉めたりしている。 

 彼女はもうすっかり、自分で食べ物を探せるようになっている。
 心配しなくても自分で歯を磨けるし、母親に文句を言うこともできる。

 「お母さんにもお茶入れてね-。」と、台所へ向かって声をかけ、手元灯を消した。

 私は、ワンピースを着ている。

 

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