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不老不死から夜空の花へ -花火と火薬のお話-

花火と火薬

去年同様、夏祭りや花火大会など、夏ならではのイベントが中止や延期、規模縮小となっています。そのニュースを聞く度、いろいろな想いが交錯しています。
中でも花火大会には、それなりの思い入れがあります。実はこの仕事を始めて間もない頃、某お出かけ情報サイトの花火特集を何年か続けてやっていました。毎年、何人かで手分けして、日本全国の花火大会の事務局数百件に連絡を取って掲載許可と情報の確認していました。今でもかつて取材した花火大会の名前を聞くと、その時のことが懐かしく蘇ってきます。

他の方とは“懐かしポイント”がちょっと違うんですが、今回は、その花火大会にまつわる話――花火と火薬がテーマです。

轟音と共に打ち上がり、夜空に輝く打ち上げ花火は、「黒色火薬と金属の粉末」でできています。あの花火の鮮やかな色は金属の燃える色。そして、音や煙は黒色火薬から生まれます。

この黒色火薬、紙・羅針盤・印刷術と合わせて「古代中国の四大発明」と呼ばれています。
四大発明について、いろいろ語りたいことがあるんですが、ちょっと(いやかなり)テーマとずれてしまうので、それはまたの機会に。

不老不死から殺戮兵器に

「四大発明」と呼ばれるくらい、世界に多大な影響を及ぼした「発明」の火薬ですが、もともとは唐の時代に、「丹薬(たんやく)」の研究から生まれたものでした。

丹薬とは、簡単に言うと「長生きの薬」。中でも「金丹(きんたん)」と呼ばれるものは、それを飲めば不老不死の仙人になれるという夢のような薬です。もちろん、真の「金丹」を造り出せた道士は、残念なことにいません。(葛洪の『神仙伝』によると、後漢の頃の道士・魏伯陽は金丹を完成させて仙人になったとはありますが……)
しかし、自称「金丹」、多分「金丹」、「金丹」っぽい、というのはたくさんあって、こういった薬が、不老長生を求めた唐の皇帝たちの命を次々と奪っていきました。
唐とはそういう時代でもありました。

この金丹を造りだすことを煉丹(れんたん)と言います。金丹を造って仙人を目指す道士たちは煉丹家と呼ばれました。煉丹家は、硫化水銀などの金属や石、生薬などいろいろな材料を混ぜ合わせ、金丹を造りだす研究をしていました。そのレシピがいくつか残っているのですが、その中に、完成品が「黒色火薬」になるものがあったのです。

確認できる中で一番古い「火薬レシピ」は、隋から初唐にかけて活動し、「薬王」と呼ばれた道士・孫思邈(そんしばく・581-682年長生き!)が著した『丹經內伏硫磺法』の中にあります。そこには、「硝石と硫黄、炭化した皂角子(そうかくし・サイカチの種子で生薬の1種)を混ぜて火を点けると“ドカン”といく」というようなことが書いてありました。
続く唐代の煉丹家もこの“ドカン”といく金丹レシピをいろいろ試し(ドカンで仙人になれるとは思えないんだけど……)、その結果、不老不死の仙人薬ではなく、「黒色火薬」が完成したのです。

この黒色火薬は、その破壊力から、まず武器として利用されていきます。黄巣の乱から始まり五代十国に続く動乱期が、火薬の軍事利用に拍車をかけます。

この時代、どんな火薬兵器があったのかは、『武経総要』という軍事版百科事典で知ることができます。『武経総要』は、西夏の侵略に困っていた仁宗が、「古今の軍事知識を比べてみたい」と、曽公亮、丁度らの官僚に命じ、5年の歳月をかけて1044年(北宋の慶歴4年)に完成した軍事書です。要するに、国で作った軍事版百科事典です。
この中に3種類の火薬の作り方と、「霹靂火球」や「水雷」、「霹靂砲」など火薬を使った武器の作り方が残されています。(どうでもいいんですが、武器の字面が格好良い)

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この火薬、11世紀の世界では、間違いなくスーパーウエポンでした。過去の軍事知識の編纂に5年もかけるよりも、火薬武器の開発に力を入れていけば、無敵の国家に慣れたかもしれません……が、残念なことにそうはなりませんでした。
そしてここから宋の良いところ(?)必要以上に軍備に力を割かなかった宋の時代、火薬は違うものに使われるようになります。

そう、花火の誕生です。

兵器から娯楽へ

花火がいつ誕生したのかは、まだはっきりとは解っていません。
フランスの中国学者ジャック・ジェルネ(1921-2018)の『Daily Life in China on the Eve of the Mongol Invasion, 1250–1276.』によると、13世紀頃の南宋の市場にはいろいろな種類の花火があふれていて、庶民が買い求めることができるようになっていたそうです。
そして、花火のようなものはもっと古くから存在しており、遅くとも12世紀には、エンターテインメントとして火薬の「ドカン」を楽しむようになっていました。

例えば南宋の淳熙10(1183)年、当時の皇帝・孝宗が大潮の時に起こる銭塘江の逆流(海嘯)を見物したときのことです。
この時、逆流が始まる前に、軍船の閲覧式も行われました。江上に約1000隻の軍船が陣形を取って並び、その勇姿を誇示しました。そこに、五色の砲火が放たれます。砲火の煙が辺りを包み込み、見物客の視界を奪いました。そしてその煙が消えて周りの景色が戻ると、そこにあるはずの軍船の姿が、1隻残らず消え失せていたのです。
なんと大がかりなイリュージョン!

この「五色」が、どんなものだったのか、残念ながら残っている記録からは解りません。煙に色がついていたのか、火花に色がついた花火のようなものだったのか……。
ただ、1000隻前後の軍船を隠せるぐらいの煙が出たというからには、かなりの量の火薬が使われたのは間違いありません。

そして、この大がかりなイリュージョン、実は「ただの前座」でしかなかったのです。

銭塘の海嘯

この日のメインはあくまでも、観潮――銭塘江の逆流を見ることでした。
この観潮イベントを記録した周密の『武林外事』を見ると、孝宗の感想は「銭塘江は唯一無二!」てな感じで、大がかりなイリュージョンを頑張った水軍の皆さんに拍手!っていうのは一文字も見当たりませんでした。
裏を返せば、火薬を使ったエンターテインメントが、この時代すでに「当たり前」になっていったということなのです。

つまりみんなで「ドカン」を楽しむ文化は、1000年近くも前からあったということです。
花火が今のような形になる前から、セレモニーや景気づけに「ドカン」――火薬の爆発を人々は楽しんでいたのです。

花火は“体で感じる”もの

そう、花火大会とは、“「ドカン」を楽しむもの”、でもあるのです。

同じ花火を映像で楽しむのと、遠くから見るのと、打ち上げ会場から見るのとでは、感動度が違います。それは、迫力が違うから?もちろん、そうです。
その迫力は、花火そのものの美しさだけではありません。
火薬の爆発する音や花火が弾ける音を「体全体で感じる」からこそ、人々は迫力を感じるのです。

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そして「ドカン」は、“癒やし”でもあるのです。

花火を体全体で感じることで、私たちは爽快感を得ます。ストレスを発散して気分を解放させます。
同じ場所で同じものを見る「一体感」も、ストレスの解消に重要な要素となります。
多くの人が、花火大会に参加することで、ストレスを解消して心をリフレッシュすることができるのです。

とすると、疫病で社会全体が閉塞感の中に沈んでいる今こそ、花火大会は私たちに必要なものなのではないでしょうか。
人が集まることで、感染拡大のリスクも上がるのは間違いありません。でも、この夏の花火大会は、開催側も参加側も、感染防止に細心の注意を払っての実施となるはずです。そこまでしても実施する意味があるし、そこまでしても参加する価値があると、私は思います。
といっても、会場周辺にいる人たちが、感染拡大を不安に感じるのは当たり前のことです。参加する側も、会場だけでなく、「家から出て、家に帰るまで」、感染拡大防止に気を遣う必要もあるとも思っています。

話がちょっとズレてしまいましたが、「不老不死」を求めた丹薬が、殺戮兵器となり、やがて人々を楽しませ、ストレスを解消するエンターテインメントになった――こう書くと、振れ幅がすごいと思いません?

もちろん、今でも火薬は武器として使われ、たくさんの命を奪っています。と、同時に、多くの人々を楽しませてくれているわけです。
同じものなら、苦しめるより楽しませる方がずっと良い――と思います。


蛇足
10代の頃からJ-ROCKを愛聴している自分からすると
花火大会の癒やしポイント
「体に響く音」「光」「一体感」
正にライブやフェスで体験できるものではないですか!
ライブハウスもフェスも、花火大会同様、ストレス解消していやしてくれる空間なのです。
この文化がなくなりませんように。この先1000年、残っていきますようにと祈りたくなる日々です。

参考
『道教故事物語』 褚亜丁・楊麗 編 鈴木博 訳 青土社
『武林旧事』 周密 
『打ち揚げ花火と健康』 井奈波 良一 日本健康医学会雑誌20(4), 214-217, 2012
などなど



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