見出し画像

海棠の花散る下で、君と 第1章 仙夢

武帝の命を受け、行方不明となっていた張騫を探す旅に出た二人の少年。しかし、その旅は、太古の呪いに仙人達の思惑が絡んだもので――
古代中国、草原を舞台に繰り広げる物語。

第1章 仙夢

 それは、帝の夢から始まった。
 そして二人は、彼を求め、旅だった。

「――待ってください!置いていかないでください!!」
 後ろから響く情けない声に、駿しゅんは大きく溜め息をついた。そして、馬の足を止めて後ろを振り返った。
「このままだと、日が暮れるぞ!次の駅亭までどれくらいあると思ってるんだ?野宿するか!?」
「……いやです。でも……」
 目に涙を浮かべながら、有為ういは必死にこっちまで馬を走らせた。彼は顔面蒼白で、中途半端に腰を浮かべた、妙な姿勢をしていた。その姿に、駿はピンときた。
「何だ?用足しか?大でも、小でもさっさとしてくれよ」
「……違います。場所は近いのですが」
「は?」
「痛いんです」
 有為は自分の臀部を示しながら、涙を流した。
「もう、これ以上、馬に乗れません」

「ったく、何で、この俺がこんなことを!」
 駿は、有為の、皮が剥けて赤く腫れ上がった尻と太腿に膏薬を塗りながらぼやいた。
「すいません。なにぶん、馬に乗り慣れていないもので……」
 人目のつかぬ木陰を選んだとはいえ、そこそこ往来のある街道沿い。白昼堂々、彼は下半身を露出する羽目になって、恥ずかしさで死にそうな思いだった。しかし、鞍と擦れて腫れ上がった、尻と腿の傷みには変えられなかった。
「ほれ、塗り終わったぞ!ったく、女みたいなケツしやがって」
 そう言うなり駿は有為の尻をパンと叩いた。彼の掌のあとが、有為の肌に赤く残った。 有為はひい、と悲鳴を上げ、飛び上がるように起きあがった。そして慌てて下半身をしまい込んだ。
 その情けない姿に、駿はもう一度溜め息をついた。
 長安を出てからというもの、有為は何かにつけて馬から転げ落ちていた。それが落ち着いたと思ったら、今度はこれだ。
 でも、仕方あるまい。有為はもともと、長安のしがない薬売りの息子だ。騎士の自分と違い、馬に乗り慣れていないのにも無理はない。
 鞍に負けた皮だって、乗ってるうちに強くなっていくはずだ。
 だが……
 こんな調子では、いつまで経っても草原に行けない。彼を見つけ出すことは出来ない。
 有為を置いていく方が得策……。しかし、この探索の旅に選ばれたのは、他でもない、この有為だった。自分はただ、それに付いてきただけ。

 漢と北を接する遊牧騎馬民族国家、匈奴きょうどは、また建国も漢と時を同じくしていた。
 漢の高祖は、匈奴に破れ、それ以来、漢は匈奴に屈辱を味合わされ続けた
 今から十年ほど前、即位したばかりの若き皇帝、てつ――武帝は、漢帝国の宿敵、匈奴を破り、長年の雪辱を晴らそうと燃えていた。
 そこで彼は、月氏げっしに目を付けた。
 匈奴と同じ遊牧国家、月氏はもともとは敦煌周辺にいた。しかし、匈奴に破れ、遙か西へ、逃れるように移動していった。
 それに追い打ちをかけるように、匈奴の老上単于ぜんう(単于は匈奴の最高権力者)は殺した月氏の王の頭蓋骨で酒杯を作り、それで酒を飲んだという。
 このことは月氏の怒りに油を注いだ。だが、どんなに単于を怨んでも、戦力が足らない。共に匈奴を討ってくれる国もなかった。
 為すすべもないまま日々怨みだけが募っているという。
 匈奴からの投降者からこの話を知った武帝は、早速、使節を月氏に派遣することを決定した。彼らと同盟し、匈奴を西と東で挟み撃ちにしようと考えたのだ。
 気鋭の若者を募り、百余人の使節団が長安を出発した。
 しかし、使節が月氏に向かうためには、どうしても匈奴の領土を通らねばならない。
 当然のことながら、使節団は匈奴に捕まり、西へ行くことは叶わなかった。長安では彼らの生死が不明なまま、歳月だけが流れた。

 ある日、武帝は夢を見た。
 夢など、もうしばらく見ていなかった。
 今から十余年前、僅か十七で即位した武帝は、しばらくは母や祖母、そして皇后の姻戚に縛られ、傀儡に甘んじていた。
 しかし、ここ数年のうちに、祖母も母も亡くなり、皇后の陳氏も策略により廃することが出来た。彼の邪魔をするものは、全て消え去ってくれた。
 また、数ヶ月前、寵妃衛氏との間に、初めての男児が生まれた。これで後継の心配もなくなり、愛する女も皇后に出来る目途もついた。
 全てが彼の思い通りに動いていた。その多忙で充実した日々の中、夢など見る暇も失せていった。
 そんな中の、久方ぶりの夢。
 そして初めての夢。
 夢が、夢だと解る、不思議な夢。
 彼は立っていた。
 一人ではない。
 目の前には、彼が心から慕う方士、李少君りしょうくんがいた。
 少君は、五年前、考廉という推挙制度で選抜され、武帝の前に現れた。
 彼は竈の神の力を説き、蓬莱に住む仙人、安期生あんきせいについて語ると共に、不思議な力を武帝に示し、帝を深く魅了した。
 武帝が神仙を深く求めるようになったのも、偏に彼と出会ってからであった。
 少君は武帝にまみえてから、間もなく世を去った。しかし武帝は彼を死んだのだと思わず、神仙界に旅立ったのだと信じていた。
 目の前に立つ少君を見て、武帝は自分の考えが正しかったのだと確信した。
「先生……」
 武帝は、思わず彼の側に駆け寄ろうとした。
 しかし、李少君は手を静かに前に伸ばし、彼を制した。
 そして、彼に周りを見るようにと、手振りで促した。
 ここは草原であった。
 側には大きな湖があり、羊たちが暢気に草を噛んでいた。
 風が、吹き抜けた。雲が、流れていった。
 どこか懐かしい、見知らぬ場所。
 そうだ、ここに自分は、数多くの兵士を、送り込んでいる。
 ついこの間まで、この地での戦況が、毎日のように上奏されていた。
 だが、親征など、一度もしたことのない彼にとっては、見知らぬ土地でもあった
 彼は、言葉では言い表せない、奇妙で不思議な気持ちになっていた。
 少君は武帝に告げた。たった一言。
張騫ちょうけんは、ここに」
(張騫――!?)
 そこで、夢は覚めた。 
張騫とは、あの、月氏に使わした使節団を率いていた者に他ならなかった。
 武帝は、すぐに太卜たいぼく(占者)を召すと、その夢の吉凶を判断させた。と同時に自らの取り巻きにその是非を問うた。
 武帝のお気に入り、中朗ちゅうろう東方朔とうほうさくは易に長けていた。そして彼は武帝にその夢は正夢であると断言した。
 さらに、朔は、その張騫は匈奴に囚われたままであるが、彼をそこから救い出せば、漢帝国の仇敵、匈奴を討ち破ることが出来るとも語った。
 その言葉に武帝は大変喜んだ。
 折りしも、匈奴との大規模な戦闘が終結したばかりであった。
 寵妃衛氏の弟、車騎将軍・衛青は、匈奴の領土の奥深くまで侵攻し、単于庭の側にある彼らの聖地、蘢城ろうじょうを焼いた。
 この戦いで、衛青は敵数百人を殺傷し、数多くの捕虜を得るという、輝かしい戦功を挙げた。
 しかし、そのほかの将軍の成果は惨憺たるものだった。ある者は捕らわれ、ある者は部下数千騎を失った。
 終わってみれば、勝ち戦からほど遠い結果となってしまった。
 青のような将軍が、せめてあと一人いれば……。武帝は心の底からそう感じていた。
 使節団の団長・張騫は、当時、禁中の門戸を守護する朗の職に就いていた、気鋭の若者であった。もし、彼が生きていれば、匈奴の内情にも通じた、頼もしい大将になるはずだ。
 東方朔は、さらに帝に告げた。
「これは、方士李少君の導きになるもの。探索に出る者は、禁裏に出入りする方士たちの内から選ぶ方が良いという結果が出ました」
 李少君の死後、怪しげな方士たちが、入れ替わり立ち替わり禁裏に出入りするようになった。皆、少君が会ったという仙人、安期生について上奏するためだ。
「さてさて、その者は……」
 筮竹ぜいちくを見ながら、朔は言った。
鞠陵于天きくりょううてんの息子、有為。少君が選んだのは、彼です」
 
「ここでもう少し休んでいくか」
 そういうと、駿は大の字になって、草の上に寝転がった。
 暦の上では春とはいえ、風はまだ切るように冷たい。それでも暖かい日差しに当たってると、眠気が彼を覆った。
「でも…良いんですか?次の駅亭まで、あと、どれくらいあるのですか?」
「半分来たかどうかってとこだな。ここで休んだら、暗くなるまでには着けないな」
「では、今日は、野宿ですか……?」
 有為は、不安そうに言った。それを見て、駿は苦笑いを浮かべた。
「どのみち、長城を越えれば、あとは野宿するしかないんだぞ。今から慣れておけよ」
「解ってますが、でも……」
 漢の通行証を持つ彼らは、街道沿いの宿場――駅亭を自由に使うことが出来たし、必要な物資もそこから得ることが出来た。
 長安を出てまだ二、三日しか経たず、旅慣れない有為にとって、屋根のないところで寝るということは、かなりの抵抗があった。
「行けます。もう、大丈夫ですから、行きましょう」
「何言ってるんだ!?」
 勢いをつけて、駿は起きあがった。
「あんなに真っ赤に腫れ上がったケツで馬に乗れるのか?」
「乗れます!」
 駿に負けない勢いで有為も答えた。
「これだけ休めば、もう大丈夫です。行きましょう!」
 言うなり有為は馬に飛び乗った。そして勢いをつけすぎて、そのまま反対側に落ちていった。
「おい!大丈夫か?」
 駿は慌てて彼を助け起こした。
「大丈夫です!」
 意地になってる有為は、背筋をピンと伸ばして立ち上がった。
「ケツは痛くないのかよ?先は長いんだ、ここでつまらない無理をしたって、仕方ないんだぞ」
 駿は、警告の意味も込めて彼の尻に張り手を入れた。有為は、きっと駿を睨み付けたが、さっきのような悲鳴を上げることはなかった。
「……本当に、痛くないのか?」
「あなたみたいに力の強いのにひっぱたかれたら、そりゃ痛いですよ。でも、もう、馬に乗れないほど、痛くありません」
 あんなに腫れ上がっていたのが、そんなに簡単に治るものなのだろうか……?
 信じられない思いでいた駿は、ふと自分の掌を見た。すると、自分の手とは思えないほど、つやつやで滑らかな掌になっていた。
「……おい」
 駿は、さっきの膏薬を借りると、反対の手に塗ってみた。塗った途端、薬はすうっと肌に染みこんでいった。と、同時に、荒れた掌の細かい傷は消え、あっという間にすべすべになった。
「すっげえ……。これ、何だよ?」
 あまりの効き目に、駿は感嘆の声を上げた。
精精せいせいあぶらです」
「あ?」
「そう言う名前で売ってるんです。精精とは、山海経せんがいきょうに出てくる化け物の名です。実際にはいやしませんよ、そんなもの。肌の馴染みが良いのを見ると、馬の膏を使っているようですが、あとはどのような薬を調合しているのか、残念ながら、解りません」
 漆塗りの、小さな箱に入った膏薬を薬籠に仕舞ながら、有為は答えた。
「何だよ、薬屋の息子。てめえのとこの薬だろ?何で解んないんだよ」
「大抵の薬は、うちで調合してますが、これは違うんです。
 一、二ヶ月に一度、不思議に良く効く薬を売りに来る老人がおりまして、これも、その老人から買った薬です。
 そして、父は老人が持ってきた薬に、妙な名前を付けて、法外な値段で売るんです。それだけならまだしも、その薬を持って、禁裏にまで赴くから、私がこんな目に遭ってしまうんです」
 唇を尖らせながらぼやく有為を見て、駿も思わず苦笑した。
 有為の父は、鞠陵于天などという、けったいな名で禁裏に出入りをしているが、言うことはでたらめで全くつじつまが合わず、他の怪しげな方士たちにすら馬鹿にされていた。しかし、彼の持参する薬は、神仙のものかと思えるほど、効き目があらたかであったので、かろうじて出入りを許されていた。
 李少君と出会ってから、武帝は深く神仙を求るようになり、怪しげな方士たちがひっきりなしに禁裏に出入りするようになった。当然、側近たちはそのことを快く思っていなかった
 東方朔が、鞠陵于天の息子、有為を探索の旅に選んだのは、そう言ったインチキ方士たちへの牽制であったと、誰しもがそう思った。
 事実、有為と共に匈奴の地に赴こうとする方士は誰もいなかった。
 彼らは、いるかいないか解らない安期生や、あるかどうか解らない蓬莱の探索には進んで行くが――しかも、かなりの金子を帝よりせしめて――、現実に生きているはずの張騫や、実際に目の前にある匈奴の領地には行けないのだ。
 しかし、武帝は本気で捜索隊を匈奴に送りだそうとしていた。
 だが、軍の方も乗り気ではなく、
「匈奴との大規模な戦が終わったばかりであるし、方士李少君の導きもあることだから」と、捜索は方士たちで行うように上奏してきた。
 軍からも方士からも見捨てられ、有為は、たった一人で、見知らぬ北の大地に送り込まれそうになった。
 そこに名乗りを上げたのが、車騎将軍衛青麾下の騎士、駿であった。
 彼は衛青と共に蘢城に攻め入り、帰還したばかりであったが、再び匈奴の土地に舞い戻ることを志願した。

 ふいに、風が有為の首に巻いたえりかけを巻き上げ、彼の顔を覆った。取ろうともがく有為を見て、駿は思わず笑った。
 それから、恥ずかしさのあまり顔を真っ赤にしている有為の側に行くと、えりかけが風に飛ばされないよう、上手く首に巻き付けてやった。そこで目に入る自分の手の色と、有為の顔の白さがあまりにも違うので、またおかしくなって笑ってしまった。
 軍に属する駿は、年中外にいるせいで、すっかり日に焼けて見事な褐色の肌をしていた。髪の毛まで日に焼け、赤茶けてぱさぱさになってしまっていたが、彼は全く気にしていなかった。
 身長は、他の兵士たちと見劣りしないどころか、高い方であったが、衛青軍の中で一番年少であったせいか、体つきはどうも華奢であった。
 他の兵士たちのように、筋骨隆々になりたくて、密かに鍛錬しているのだが、今のところ成果は現れていない。
「――さっきから、何を笑ってるんですか!?」
 笑いの止まらなくなっている駿に向かって、有為はぼやくように言った。
「悪い悪い……あんまり色が違うんで」
「は?」
「碁石みたいだよな、俺たち」
「何が言いたいんですか?」
 訳の解らないことを言っていると、呆れたように有為は首を振った。
 長安生まれの長安育ちで、一日のほとんどを薬屋の店先と倉庫で過ごす有為は、ほとんど日の当たらない生活をしているせいか、女性もうらやむほどの色白の肌を持っていた。
 中肉中背で、目がクリッとして幼い顔立ちの有為と、細身で長身、目鼻立ちのきりっとした駿は、全く正反対のタイプだった。
「でも、本当に、独生どのが一緒で良かった……。そうじゃなければ、今頃、私は路頭に迷ってました」
「大げさだな。それに、俺がこの旅を志願したのは、お前の為じゃない。親分の為だ」
「親分?……ああ、そうでした、衛将軍のことでしたね」
 有為は駿に尋ねた。
「でも、どうして、将軍のことを親分などと呼ぶのです?前から、不思議に思ってましたが」
「親分は、俺の親みたいなもんなんだ。でも、親じゃないから、親分」
 駿は、有為を馬に乗せながら答えた。
「衛の姓を名乗るずっと前から、俺は親分と一緒だった。俺は二親が何処のどんな奴だかは知らない。親分に育てて貰ったんだ」

 衛青の父、鄭季ていきは、もともと河東郡平陽の小役人だった。
 平陽は、武帝の姉・平陽公主の所領であり、そこの下級官吏は交替で、長安にある平陽侯邸に務める習わしになっていた。
 鄭季も、その役を務めるべく、長安の平陽侯邸に赴いた。そのとき、彼は衛媼えいおうと呼ばれる女性と会った。
 彼女は平陽公主の夫、平陽侯曹寿そうじゅに仕える妓女であった。
 妓女の役割は、侯邸の宴席で歌舞を興じて貴人の相手をし、気に入られれば夜伽も務めた。彼女たちは、一挙一動が男の心に響くように、訓練された女たちでもあった
 衛媼に一目惚れした季は、彼女が自分の身の回りの世話をして貰うよう、平陽侯に頼み込んだ。
 地方の下級官僚は、それなりの財産がないとなることが出来なかった。鄭季も当然、平陽ではそこそこの名家で、それなりの金があった。 
 かなりの金子をはたき、彼は衛媼を側に置くことに成功した。
 やがて、彼女は彼の子をつぎつぎと、三人も生んだ。その末っ子が衛青である。彼の上に、後に武帝の寵妃となる姉の子夫、そして兄の長君がいた。
 任期も切れ、故郷平陽に戻らねばならなくなったとき、季は、彼女との子供を一人、郷里に連れて帰ることにした。
「女は、ここに置いていって。男はどっちでも良いわ。両方連れていっても良いわよ」
 子供を連れて帰りたい旨を衛媼に告げると、彼女は即座にそう言った。
 娘は、自分と同じ妓女に育てなくてはならない。それは、自分が決めたことではなく、妓女の娘として生まれた者の、宿命である。
 娘を上手く仕込めば、貴人の歓待だけでなく、贈り物として出世や保身の道具にすることが出来た。つまり、妓女は、貴族にとっては貴重な財産だったのである。
 一流の妓女にするにはそれなりの時間がかかる。だから、妓女の娘たちは幼い頃から歌舞などの修練を積まされた。
 仮りに歌舞が物にならなくて、妓女として出来損ないに育ってしまっても、その場合は侍女として使うことができた。
 必要な礼儀作法などは既に身に付いているし、仕事は歌舞から身の回りの雑務に変わるだけで、夜伽を務めさせられたり、物のようにやりとりされるのは同じだった。
 つまり、娘には損はないのである。
 一方、妓女の息子の方は、はっきり言って必要がなかった。家の雑務をこなさせてもらえれば良い方で、大抵は奴僕として売られた。
 だから、地方の名家である父に引き取ってもらえる方が、息子も幸せになれる。衛媼はそう考えたのである。
 長男の長君は、あまり自分に懐いていなかったので、季は末っ子の青を郷里の平陽に連れていくことに決めた。
 妓女の子供たちは、当時としては珍しく、通常、母方の姓を名乗っていた。当然、衛媼の子供たちも、皆、母と同じ衛姓を名乗っていた。
 だが、青は父に引き取られるに当たって父方の鄭を名乗ることになり、父と共に遠い河東郡平陽に移った。

 平陽で青を待っていたのは、過酷な生活であった。
鄭季の正妻と、その子供たちは、当然、妾の子など認めるはずもなかった。
 青は、食事もろくに与えられず、奴僕同然の暮らしを強いられることになった。
 しかし、彼は、それに負けるような少年ではなかった。
 平陽侯邸にいたときでも、蝶よ花よと育てられる姉たちと違い、自分は兄と共に、虐げられた生活を送っていた。
 それでも、姉たちは何かにつけて気に掛けてくれ、兄は必ず彼を守ってくれた。ここには、その兄姉たちがいない。
 腹違いの兄姉は、彼を家族とは認めていなかったし、彼もまた認めていなかった。
 押しつけられた羊の番をしながら、いつも、彼は平陽侯邸での日々に思いを巡らせていた。
「いいか、俺たちには頼るべき親も、兄弟もいないと思え。頼れるのは自分自身。自分の力で、生き抜くんだ!」
 兄の長君は、拳を上に突き出しながら、よく青にそう言った。青は、意味もわからないまま「おう」と相槌を打ちながら、拳を突き出した。
「よし、では、まず喰いもんだ」
 そう言って、長君は同じ侯邸にいる少年たちを引き連れて、平陽侯の桑畑に侵入しては、土留め色の桑の実を摘んで口の中に入れた。
 甘酸っぱい実をたらふく頬張り、管理人に怒鳴られる前に桑畑から退却する。
 食事も満足に与えられない彼らにとって、これは実益を兼ねた遊びであった。
 そして、遊び仲間の少年たちは、気がつくと一人消え、二人消え、徐々に少なくなっていった。
 みんな、売られていったのだ。
 長君は、母に似て見目が良かったので、侯邸に残されることになっていた。だが、父親似の青は、他の少年と同じように、売られていく可能性が高かった。
 年長の長君は、それに薄々気付いていた。
 だからこそ、自分なりに考えた生き抜く術(すべ)を、青に伝えようと必至になっていた。
 そのことが、長安から遠く離れた青の中に、ゆっくりと、しかし確実に蘇ってきた。
 隙を見て、彼は鄭季の家を飛び出した。そして往く当てもないまま、放浪生活を送るようになった。
 体も大きく頑強で、芯の強い性格の上、義侠心に溢れていた青は、行く方々で様々な人間に目を掛けられた。そして彼らから武芸や渡世の方法を教わり、いつの間にか、河東では知る人のいない游侠の士となっていた。
 駿が青に出会ったのは、その頃であった。
 ある日、青は道ばたで死にかけていた幼児を見つけた。
 彼は、その子の手当をして、親を捜したが、土地の長老から既に亡くなっていたことを聞かされた。
 彼は、自分の後をよちよち歩きながら必至に追ってくる幼児の姿に心を打たれ、自分で面倒を見ることにした。
 その子が駿だったのである。
 駿は青に拾われる前、自分が何処で、どうしていたのか、全く覚えていない。青自身も、駿をどの辺で拾ったのか、すっかり忘れてしまったため、駿の故郷も、先祖も、全く解らなかった。
 駿の正式な名は鄭駿、字を独生。
 姓の鄭は、もともとは鄭青だった彼にちなんだものだし、名も、字も、騎士になるときに青につけて貰った名前だ。
「俺を拾ったころ、親分は今の俺とそんなに年が変わらない、――もっと若かったかもしれない――なのに、名の通った人物として、何処に行っても尊敬されてたんだ、すごいだろう?」
 馬の足を進めながら、嬉しそうに駿は言った。
「今は、皇子の姻戚として、それなりの地位になってるけど、あの頃の親分は、何もない中で、巷間で確固たる存在になってたんだ。それも二十歳(はたち)になる前に!ほんと、すっごいよな」
 衛青のことを話す駿の顔は、とても嬉しそうで、きらきらと輝いていた。
「でも、何で、そのような人が長安に来て、姓を変える必要があったのですか?」
「何だ、お前知らないのかよ?」
「知りません」
 有為は首を振った。駿は、そんなことも知らないのかと、呆れた。だが、すぐに考え直した。
 二人は出会ってまだ間もなかったし、こうやって話すこともほとんどなかったことに気が付いたのだ。
 道中は道中で、有為が馬に慣れないため、先に進むだけで精一杯だったし、駅亭に着けば着くで、有為は緊張と疲れからその場に倒れるように眠り込む毎日だったからだ。
(話が出来るくらい、余裕が出てきたってことか)
 この先、長安を離れれば離れるほど、旅は厳しさを増すだろう。それを考えると、徐々に旅慣れてきた有為のことを、喜んだ方が良いのだろう。
「今から十年以上前のことだよ」 
 気を取り直した駿は、青が改姓した理由を話し始めた。

 河東周辺で旅暮らしを続ける青と駿の元に、ある時長安から使いが来た。
 それは、大至急、長安の平陽侯邸に来るようにとのことであった。
 おぼろげながら、青の頭の中に、平陽侯邸で過ごした幼き日の記憶が残っていた。
 彼は、長いこと会っていない母や、兄姉たちの事も気になったので、その申し出を受け、平陽侯邸に赴いた。
 そこで彼は、家族と久方ぶりの再会を果たし、姉の子夫に重要な使命が課せられたことを知った。
「姉上の大事というより、それは、国家の大事ですね」
 平陽公主から話を聞いた青は、驚いてそう言った。
「そうじゃ。それ故、お前にも身を慎んで欲しいのだ。お前の咎が、お前に姉に及んでも困るのでな」
 公主の話に、青は苦笑いを浮かべた。
 河東では自分の悪名を知らぬ者はいなかったが、まさか、長安にまで響いていたとは思いも寄らなかったからだ。
 彼は、姉の身を案じ、平陽侯夫妻の申し出に応じて、そのまま侯家に留まることにした。そして、姓も父方の鄭から母方の衛に改め、新たな人生を歩むことにした。
 この時、駿も彼と共に侯家に置いてもらえることになり、幼いながらも彼と一緒に侯家の用を務めるようになった。

 衛青が侯家に戻った理由、それは武帝に大きく関係していた。
 その当時、即位したばかりの武帝は、鬱屈した毎日を送っていた。
 彼は、彼の父・景帝の長子ではなく、もともと皇太子でもなかった。
 そんな彼が、景帝の後継者となり、帝位を継ぐ事が出来たのは、彼が、景帝の姉の娘、陳嬌ちんきょうと縁組みしたからである。
 彼は、景帝の姉、長公主の後ろ盾によって皇太子となり、帝位を継ぐことが出来たのだ。
つまり、彼が帝位に就いたのは、女の力によってであり、当然、後宮の女性たちの権勢は目を見張る物があった。
 彼の母、王皇太后は、もともと長公主の口利きで後宮に入った女性であるし、まだ健在だった祖母、竇大皇太后も長公主は実の娘であり、陳皇后は可愛い外孫であもあった。
 全てが長公主と陳皇后の意向で動いていたと言ってもいい。
 政治においても、大きな変化を好まない竇大皇太后が何かと口を挟み、武帝が行おうとした改革をことごとく潰してしまった。
 何一つ、彼の意志が通ることなどなかったのである。
 陳皇后を始めとする、後宮の女性に指一本触れないことが、彼の精一杯の抵抗であった。
 彼は、幼馴染みの韓嫣を男妾とし、昼も夜も彼と一緒に過ごしていた。
 しかし、男相手では世継ぎを望めない。
 男色に走った弟を案じた彼の姉、平陽公主は、あることを思いついた。
 要するに、女性の良さを、彼に知って貰えばいいのである。
 その女性は、地位も、実家の権力もなく、彼の意のままになる者が良い。
 公主は、年や、容姿が彼の好みに合い、卑賤の身分である青の姉、子夫に白羽の矢を立てた。
 公主は、子夫の母、衛媼の助けも借りて、彼女を武帝のためだけの妓女に仕上げた。
 何年もかけ、丹念に仕込まれた彼女は、些細な仕草一つとっても、武帝の心に響くような女性になった。
 苦労して彼女を”完成”させた頃、行方不明になっていた彼女の弟の消息が侯家に伝わってきた。
 その弟――青は河東では名の知らぬ者がいないヤクザ者だという。
 大切なときに、何か問題を起こされたら堪ったものではないと、公主は慌てて青を長安に呼び寄せた。
 そしてこのおかげで、武帝は青とも、運命の出会いをすることになるのである。

 建元二年(前一三九)年の春、三月。
 武帝は覇上での禊ぎの帰り、姉の平陽侯夫妻の家に寄った。
 侯邸では歓迎の宴が開かれ、そこで、公主はさりげなく子夫を武帝に引き合わせた。
 彼女は、多くの妓女に混じって歌っていた。それも中心ではなく、端の方で。
 姉は知っていたのだ。
 弟は中心で華やかに活躍するものよりも、端でさりげなく光るものを気にかける性格なのだと。
 そして、そこに子夫を置いた。
 彼女は、武帝のためだけに作られた妓女。
 ちょっとした表情でも、微かに動く指先でも、全てが武帝の好みに響くようになっていた。
 気がつけば、武帝は彼女から目が離せなくなっていた。
 全て公主が仕組んだこととは知らずに、武帝は子夫の虜になっていた。
 宴もたけなわになったとき、武帝は更衣のために席を立った。貴人は用足しのたびに着替える習わしがあるのだ。
 武帝は、更衣の係に子夫を指名した。
 それが、何を意味しているのか、公主にはすぐ解った。そして、心の中で、高笑いを上げた。全て、自分の思い通りになったわけだから。
 軒中べっしつに立った帝と子夫は、そこで肌を重ねた。
 初めて触れる女性の肌に、彼は夢中になった。
 事を終え、宮殿に帰るとき、彼は子夫も共に連れていった。
 それから武帝は変わった。
 それは、衛子夫という存在が、彼の支えになったのと同時に、彼女の先にあるものが、彼の希望になったのだ。
 希望の一つは、彼女を連れて帰ってから一年後、彼女が待望の子供を身籠もったこと。彼は、父になる喜びを知った。
 もう一つは――そう、彼女の弟、衛青と出会ったことである。

 子夫が身籠もった建元三年(前一三八)の春頃から、彼は微行(おしのび)と称して、夜間出歩くようになった。
 行き先は義兄、平陽侯邸。
 最初は、子夫を引き合わせてくれた姉への礼に向かっただけだった。しかし、彼はそこで、子夫の弟、衛青に出会った。
 その出会いが、彼の希望になった。
 彼は、自分の力になる。帝はそう直感した。
そして、彼と親しく話すうちに、その直感は実感に変わった。
 衛青は、十になるかならないかの頃から家を飛び出し、巷間で揉まれて生きてきた。その中で培った、広い見識と、知恵と、力が彼にはあった。
 彼は、屁理屈に近いような、教養や学問しか詰まっていない、宮廷の官僚たちとは正反対の人間だった。
 武帝は、衛青とその兄、衛長君に侍中の位を与え、宮廷で自らの側に侍るように命じた。
 祖母の竇大皇太后も、母の王皇太后も、寵妃の一族を側に置くことぐらいだったら、簡単に許してくれた。
 祖母も母も老いて、先が見えている。この先、そう長くはない。
 一番疎ましい、自分の皇后は、自分の姉、平陽公主が追いつめていくことだろう。
 姉が弟のことをよく解っていたのと同じように、彼もまた、姉のことをよく解っていた。何より、自分たちの母親は、長公主と組んで皇太子とその母を追い落とした、王皇太后その人だ。
 彼女は、自分の母と同じようなことを、きっとする。
 そうなれば、全て自分の意のままになる時代が来るのだ。
 衛青たちを側に置いたのは、それに向けての準備の、第一歩であった。

 衛青を側に置くようになっても、彼は平陽侯邸に行くという口実の微行を、引き続き繰り返した。
 しかし、実際、侯邸に赴くのは稀で、長安郊外、かつて秦の阿房宮があった辺りで狩りを繰り返した。
 武帝のこの狩りは、匈奴討伐の準備の第一歩でもあった。
 狩りをすることで、部下の動きを見極め、役に立つ者とそうでない者を見極めていたのだ。
 武帝は、定員のない朗に、これはと思う人物を次々に任じると、必ず夜狩りに連れ出した。そこでさらにふるいに掛け、有能な人物を残していった。
 そうやって、選ばれた中に、張騫がいた。

「本当は、親分も月氏に行きたかったんだ。旅暮らしが長かったしな……宮仕えよりよっぽど性に合ってる。でも、子夫姉さんの出産も近かったし、長兄さんの具合も悪かったから、自分が家族を支えなきゃならないって、諦めたんだよ」
 駿は青の、そう言う人情の厚いところが大好きだった。そして、その選択をしたために、武帝と共に十年近くも雌伏しなければならなかった、彼の辛さも、側にいてよく解っていた。
 だからこそ、駿はこの旅に出たのだ。
「張の兄貴と、親分は昔から仲が良くて、良く、一緒に朝まで飲んでたよ。特に、使節団出発の前日なんて、すごかったんだぜ」
 酒を飲む身振りをしながら、駿は笑った。
 まだ、幼い子供だったけれど、眠い目を擦って、駿は二人が熱く語り合うのを懸命に聞いていた。
 衛青も張騫も、匈奴の傍若無人ぶりに強い憤りを感じ、彼らの略奪に苦しむ国境沿いの人々を、何とかして救いたいと思っていた。
 そして月氏に使いする騫に、青は自分の希望も託した。そして、無事、使いから帰ってきた暁には、共に、匈奴を討とうと、誓い合った。
「蘢城まで攻め入ったとき、親分は、十年前に消えた使節団の人間も捜した。捜しているうちに、蘢城まで行ってしまったってほうが、正解かな。でも、見つからなかった」
 衛青は、単軍で敵陣に深く攻め入った危険に気付き、充分な探索もしないままに撤退を決めた。
 駿は、自分は張騫の顔を覚えているから、単騎残って、彼を捜すと主張した。だが、青は許さなかった。
「我が軍の者で、一人でも匈奴に残すわけにはいかない。全員無事帰還してこその勝ち戦だ!今動かねば、簡単に返り討ちに遭うぞ。敵が体勢を立て直す前に、胡地を後にするのだ」
 そう叫んだとおり、青の軍は一番の戦功を上げたが、失った将兵も一番少なかった。
 一気呵成に敵地に攻め入り、その勢いのまま帰還した彼の軍勢は、伝説となった。しかし、その伝説と引き替えに、彼は親友の消息を求める機会を失った。
「……蘢城まで行って見つからなかったのに、私が見つけることが、出来るのですか?何故、私が選ばれたのでしょう?」
 有為は自信なさげに呟いた。それを聞いて、駿は、申し訳なさそうに頭を掻きながら言った。
「まあな、言い出しっぺは、あの東方先生だからなあ」
「何です?」
「東方先生の体の中には、血と一緒に嘘が流れてるからな。この俺も何度、欺されたことか……」
「嘘……!」
 有為は、言葉に詰まった。目には、涙が滲んでいた。
「まあ、まあ」
 駿は、馬の足を緩めて有為の隣につけると、彼の背を慰めるように叩いた。
「いいか、良く聞けよ。東方先生のすごいところは、口から出任せを重ねているうちに、それが巡り巡って本当になっちまうとこなんだ。陛下もそこをお気に召してる。俺も、それに賭けている。
 お前が探索に指名されたのはいつもの出任せとしたって、張の兄貴は生きている、そう信じることだって出来る。どんなに僅かだっていい。俺は、生きてるって方に、賭けてるんだ」
「独生どの……」
 有為は、顔を上げて涙を拭った。その様子を見て、駿は笑った。
「俺のことばっかり、話してるじゃねえか。お前のことは何かないのか?」
「……ありません」
 有為は、大きく息をついた。
「しがない、薬屋の息子ですから。薬の調合一つとっても、まだまだ勉強不足で。でも、いつかは、この膏薬のような優れた効き目を持った薬を造り出すのが、夢でした。なのに、何でまた、このような目に……」
 有為の瞳には、また、涙が浮かんでいた。
「ったく、お前は」
 駿はもう一度、彼の背を叩いた。
「見知らぬ土地に行けば、見知らぬ薬に出会うってもんよ。旅は、いいぞ」
 青空を見上げて、駿は笑った。
 この空の続くどこかに、きっと、彼はいる。 


第2章はこちら

一括版はこちら


この記事を「良い」と思っていただけたら、スキやシェア、サポートお願いします。 皆さまから頂戴したサポートは、今後の活動の励みとさせていただきます🙇