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ラッキーガール


 初めてあなたの部屋を訪れたときに聞いた「嫌じゃない?」という声の、淡く繊細で透き通ったヴェールのような優しさは今でも私の頭の中で響き続けている。
 恋人関係を結ぶということの意味合いや責任を深く思考してから交際に発展するカップルは、果たしてどれくらいいるのだろう。運命として惹かれ合い、自分たちこそが運命だと疑わないことの何がいけないのだろう。ヴェールは永遠の象徴だった。

 今年の一月、友人と二人で偶然通りかかった神社でお参りをし、そこでおみくじを引いたことを思い出す。恋愛の欄には「思い通りにならぬ」と書かれており、落胆する私を見て友人も同じように落胆していた。無理矢理励ますのではなく、一緒に落ち込んでくれる友人のことを愛しく思った。
 あなたにそのことを話したとき、電話越しで「でも思い通りになる恋愛ってつまらないよ。思い通りにならないから一緒にいて楽しいし、一緒にいたいと思えるんじゃない?」と余裕に満ち溢れた返答をされた。私はありがとうと言いながら少し嬉し泣きをしていた。幸せだった。でも本当に思い通りにならなかった。
 あなたのヴェールは水溶性だったのに、私はそんな考えに至らず、ぬるま湯でつけ置き洗いをしてしまった。正確な時間も計らず。
 ヴェールは音も無くいつのまにか消えていた。

 加湿器の水の替え方も、シンク用と食器用のスポンジの区別も、ペットボトルを捨てられる曜日も、私の肌には会わない高い化粧水ボトルも、忘れなければならないと思えば思うほど忘れられない。忘れたくない。消えてほしくない。
 ヴェールの模様はもうおぼろげだけれど、手触りならまだ覚えている。まだ覚えていることがたくさんある。

 まるで自分の存在証明のように部屋に置きっぱなしにしていた小説や漫画をあなたが読み、万が一ひとりで涙を流すことがあるのならば、私はもう間違えない。
 今までずっと、ティッシュを、それも箱ティッシュから数枚のティッシュを取り出し、あなたの涙を拭いていた。ひとつぶの涙を拭くには多すぎるティッシュ。涙を拭くくせに、水に流せるティッシュ。水溶性のティッシュ。私はもう間違えない。あなたの涙はあなた自身のものであり、私が勝手に拭くことも止めることもしない。
 あなたが好きなだけ泣いて泣いて泣き疲れた頃、一緒に水族館でグレーターサイレンを見ましょう。大きなカニの水槽を通り過ぎるときには、私が盾になりますから。


おみくじに書かれた歌は字足らずでそれでもわたしはラッキーガール
/花浜紫檀

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