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supernova

"当たり前"ということにあぐらかいていたなと反省する時は、いつもBUMP OF CHICKENのsupernovaの曲を思い出します。

まさに今。かけがえのない瞬間に出会う手前にいる。大切な人の命が、消えかかっている。とても身近な、祖父の命。

思い返せば、父よりも遊んでもらった記憶の濃い祖父。お盆と年末は毎年必ず帰り、山へ川へ色んなところへ連れて行ってくれた。孫の私たち兄弟をとても可愛がってくれた。大好きだけど、ちょっぴり怖くて、おばあちゃんの方が好きだったかもしれない。それでも、沢山の愛情をかけてくれたことは分かっているし、かけがえのない存在なことに変わりはない。

1ヶ月前、祖父が倒れた。

病気になるまで趣味の登山に勤しんでいたくらい元気な祖父だから、病人ということが本当に似合わないし、信じられなかった。
祖父自身も受けいれられていないように感じた。当然のようにも思う。今まで出来ていたことが少しずつ出来なくなる。老いを感じていく。それを受け入れてはいけないような何かを感じると思う。

その時、余命3ヶ月だと聞かされた。コロナだから会いにいけず、1ヶ月ほどたち病状が悪化した。今日か明日が最後らしい。母がかけつけ、動画越しで祖父を見た。熱にうなされ、手足はパンパンに浮腫み、黄疸が出ている。

「何か声をかけてあげて。もう最後になるから。」
と母に言われた。
祖父ももう長くないことを知っているそうでまわりも余命を隠すそぶりもない。

何を言えば良いんだろう。

今までありがとう?
大好きだよ?
ひ孫を見せてあげれなくてごめんね?
それとも今までの思い出話?

口に出してしまうと、とても軽いものになりそうで、言えないことがいっぱいだった。何も言葉が出てこない。

いくらもう長くないからといって、去りゆく命として言葉をかけて良いのだろうか?
その前提で声をかけるのは、私が受け入れられなくて、やっぱり言葉が出ない。

まさに今、戦って、苦しんでいる祖父に対してそんなこと言って良いのだろうか?

とはいえ、がんばれ!とも言えなかった。もう十分に頑張ってる。そんな人に言いたくなかった。ただ「おじいちゃん。」と名前を呼ぶだけで精一杯だった。

考えすぎかもしれないけれど、なにを言っても足りない気がして、失礼な気がして、結局言えない。

祖父は今どんな気持ちだろうか?声が出せなくなっているので、今となっては聞くこともできない。静かに死に向かう自分の命と向き合っているんだろうか。祖父が生きようと逆らっていないと、もっと早く迎えに来てしまうんだろうか。

家族みんなで動画を繋ぎ、祖父と会話した。

弟も同じ気持ちだったのだろう、言いたいことはたくさんあるのに何も出てこなかった。
ただただ号泣していた。
私はその時、泣けなかった。

泣いている弟や、妹を見て私は羨ましかった。私だって泣きたかった。感情を表したかった。

でも、そこでも私は、泣きたいのは祖父ではないか。私が泣いたら迷惑ではないか。などと考えてしまい、泣かないように感情をコントロールしていたように思う。それと同時に、泣くとは死を受け入れたからではないかとも思った。

死は誰にでもやってくるから、悲しむものではないのではないか。生まれてから死に向かって進んでいる。などと最近読んだ哲学の本の言葉やよく分からない感情がぐるぐる巡り、とうとう通話を終えた。

今、母からの連絡を待ちながら、でも良い知らせでない限り連絡は来ないでほしいと思いながら、こうして文字を打っている。

文にすると、実感してしまって涙が止まらない。どんな死生観でも良い、悲しいから涙は出るし、不可抗力だ。

もし、仮に亡くなったって、私にとっての唯一の祖父はこれまでもこれからもあなただけです。言葉にできなくて、伝えられない孫でごめんなさい。些細でもあなたとの歴史を持てて幸せです。

もし天国に行くまでに寄り道する時間があったら、私の元にも来てね。私の感情が、伝わると良いなと、願っています。

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