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いじめを加速させる中身の無い綺麗な言葉

教育で多用される金言


 いじめとイジリの線引きをどこでするのか、という問いは教育の現場で絶えず問われています。そしてこれといった画期的な結論が出ていません。
 この種の問題に対する最も一般的な回答は「されてる側がいじめだと思ったらそれはいじめ」でしょう。これはその納得のしやすさや客観的な判断を下しやすさから教育の場面では広く用いられています。現に、私の学校の教師たちは人間関係について口を開けば、皆軌を一にして「されてる側が~」と機械的に唱えるスクリプトへと変貌します。

 しかし、実際はこの文句は何一ついじめの本質をとらえていない美辞麗句です。一見金言のように思われるこの文字列は実際にはいじめをより不透明で陰湿なものにし、被害者の自己責任感を強める毒薬としてしか働きません。少なくとも高校生の私の目から見れば。今日はそんなお話。


 では、この言葉の問題点は何でしょう。いったんこの線引きに対する一般的な世論について考えてみましょうか。


世論


 大方、「まあ少々度が過ぎた線引きだけどそこまでしないといじめってのはなくならないし取り締まれないよね」といった感じですかね。
 この考え方自体はあながち外れでもないでしょう。いじめというのは本当に基準を決めるのが難しいですからね。被害者の性格、加害者の性格、二人(あるいはそれ以上)の関係性、文脈などによっていじめかそうでないかは変わりますしね。

 そんな流動的な概念である「いじめ」を簡単に客観性をもって定義するためには「被害者側の意識」が最も良い指標になるでしょう。だからこそこれは便利で大人たちがこぞって使うわけです。何も内実を知らない愚鈍な大人たちが。


被害者にすべての裁量権を与えることの弊害


 何が問題なのか。それは、実際にそれを教えられた生徒たちが具体的にどうするかを考えると見えてきます。ここでは、他人に攻撃的な行動をする人を「いじめっ子」とします。実際にいじめといえるほどのことをしているかはここでは気にしません。

 例の金言を教師から教えられた時、いじめっ子はどう思うでしょうか?答えは、「そんなん言ったもん勝ちじゃん」ですよね。そして、これは正しいです。ほんとにぶっちゃけ言ったもん勝ちです。美人局ムーブもできちゃうわけです。そう。ここが問題なのです。

 いじめを受けていると叫ぶ人達は被害妄想をしているだけだ!なんて言いたいわけでは全くありません。ただ単に、いじめっ子の視点から考えようねという話です。

加害者が自分は被害者だと感じる


 いじめっ子からすれば、自分の処遇はいじめられている本人の言い分でどうとでも変わってしまいます。なので、いじめっ子が自分の行動はイジリの範囲内であると思っている場合、被害者の人には「このくらいでいじめにはなんないよね???この程度でチクるとかどうかしてるよ???」という圧力をかけることになります。中学で沢山イジリやいじめを見て、いじめられる側にもなった私が言うんですから本当です。

 被害者側に加害者を裁く権利を全て委ねてしまうのは、加害者側のある種の「被害者意識」に必ずつながります。「やられてる側がおおごとにしなければ円満に収まる」。「あいつがあの程度でチクったから俺らは処罰食らったんだ」。これらは全て全くもって的を外した考えですが、裁量権のすべてを被害者に委ねる呪いのような言葉のせいで、これらが簡単にまかり通ってしまうのです。

被害者に全権を与える美しい戯言


 加害者を裁く権利を被害者に与えるのは一見とても優しいことのように思えます。しかし、その被害者と加害者の極端に非対称な権力構造は必ず、必ず両者間のさらなる軋轢を生みだします。被害者は声を上げることを暗黙の了解によって禁じられ、形骸化された「被害者に寄り添うスタンス」だけがステージの上で踊る。これを理解できない大人たちがその言葉の持つ審美性を妄信し、狂った肉人形のように空虚な言葉の羅列を吐き出し続けるのです。現場を見て本気でいじめに対処しようと思っていれば絶対にこの結論には至りません。

 この思想がまかり通っているうちは被害者はいじめを止めるためには声を上げるよりほかはありません。しかし、それは同時に「私は被害者です!」「私はこのくらいの仕打ちにも耐えられそうにありません!」と宣言することにもなります。結果的に周りから被害者に向けられる目は暖かいものではなくなります。「その程度ではいじめとは言えないんじゃない?」「もう少し頑張ってみない?」「もう少し根性を身につけないと将来苦労するよ?」「被害者面してどう?楽しい?」「それぐらいコミュニケーションのひとつだよ」。こんな言葉が被害者に向けられます。

 もちろんこれらの自己責任論的風潮がこの言葉一つによってのみ生み出されたものだとは言えません。むしろ、日本全体に昔から広まっている気風だといえるでしょう。しかし、この言葉によって、このいじめに対する考え方が影響されているのは確かです。


実際の解決策


 ここまで長々と話しましたが、ではどのような基準にすればいいのかということですが、正直に言うと、私自身いいものを思いついているわけではありません。先に言った通りそもそも一口に言える基準のみによっていじめは判定できるものではないですしね。ただ、できるだけ客観的な基準を設けるべきだとは思います。例えば、自己防衛のための行動として過剰かどうか、などです。
 何が言いたいかといえば、合理性を欠いた相手への過剰な攻撃はいじめだということです。また、被害者の人がすごく傷ついたとしても、それが問題解決のために合理的な範疇であればいじめには該当しないということです。被害者がどう思っているかは考慮すべき事実ではありますが、それだけでいじめと判定しうる材料には到底なりえません。

 もちろん、実際の問題はそんなに単純ではありませんが。状況によって判断するべきです。ただ、「されてる側が~」の言葉を唱えるというのは、つまり被害者の訴え待ちです。教育の場面において、それは決して許されません。監督者がその集団においていじめがないかどうかは常に目を皿にして探すべきことであり、「そんないじめが起きてるなんて知らなかった」は言い訳にはなりません。
 教育の現場にはびこる、そのような「被害者が自分で声を上げる」を待つことにのみ重点を置いたスタンスがこの一連の問題の根底にあるものではないかと思います。
 監督者として自覚をもって積極的に問題発見をし、解決をしようとする姿勢によって、「被害者が声を上げたからいじめということになってしまった」「被害者が我慢さえしてればばれなかったのに」という考えがなるべく減らせるでしょう。たとえわずかな違いだったとしても。

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