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ロマンポルノと対峙した日々(「あの頃、文芸坐で」外伝)【1】映画館の臭い、「セックスハンター性狩人」「後ろから前から」「百恵の唇愛獣」「団鬼六 薔薇地獄」

まずは、初回で触れなければいけないのは、映画館の話である。ロマンポルノは、にっかつの映画館で2週間毎にプログラムが変わって封切られていた。基本はにっかつ製作のものを二本とピンク映画会社から買い取った作品(買取と呼ばれた)を一本の三本立てであった。ロマンポルノは一本70分程度の作品がほとんどだったので、三本観ると、休憩時間も合わせて3時間半くらいでしたかね。結構な時間過ごしましたね。そして、当時は入れ替え制なんて習慣はないから、行くとすぐ中に入って、終わっていないところから映画を観ていたりしていた。その自由さは映画館のいいところでもありましたね。そういう意味で、当時は営業マンの暇つぶし場所としても成人映画館は重宝されていました。

そして、結構な数の2番館があった。まだ、家庭ビデオもレンタルも普及していない時である。この2番館というか、ロマンポルノを上映する名画座が私の主戦場だった。よく行ったのは「江古田文化」「高田馬場東映パラス」「牛込文化」といったところ。全て、今は存在しない映画館である。そう、結果的にはビデオに駆逐されていった感が強い映画館が多かった。そして、数年後には、社会人になっていた私は、封切館「池袋北口にっかつ」「新宿にっかつ」というところでロマンポルノを観ることになる。そして、封切り日の女優さんたちの舞台挨拶もよくいったものである。スマフォで簡単に写真が撮れる時代ではない。記憶の中にそれはある。

そして、当時の成人映画館、封切り、名画座にかかわらず、紫煙がいっぱい立ち込めていた。禁煙だが、禁煙でなくて当たり前の世界。足元には、吸い殻が落ちている。満員になることはまずないので、まあ無言のルールで映画館は成立していたのだ。それを考えると、コロナ禍で、みんなよく従うと思うわけですよ。統治者は確実にあの頃よりバカなのに?本当に大人しくなったものだと思います。

だからこそ、女性客は入れない雰囲気はありましたね。とはいえ、男性客しかいない場所というのは、男性同士の交流場になる確率が多いのですよ。ガラガラの映画館の後ろに立って物色している男たち。獲物がいると、隣に座ってきておさわりし放題。成人映画館というのはそういう場所でもあったわけです。LGBTQなどとなんか保護されるような時代ではなかったので、その趣味の人たちは、今より野生的でしたね。私は、触られたことはないが、本当にそういう人たちが気持ち悪く、今も苦手です。そう、ヘイトはしないまでも一緒にはいたくないというのが本音なのです。

結局は場末の性風俗的な臭いが「成人映画館」にはあり、それも含めてロマンポルノはスクリーン状に発光していたわけです。そういう意味では、今、ビデオで観ることができるロマンポルノは本当のロマンポルノではないのです。

実際、映画館の中で抜いてる男の人もみた事はあります。そういう人もいての成人映画館だったのです。人間の虚しさ、寂しさいっぱいの臭いを感じながら映画を観るって、もう今では想像もできない世界がそこでした。

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で、今日は1981年1月27日。江古田文化で観た4本の映画について。と言っても、内容などほぼ覚えていないので妄想映画館的にはなりますが、読んでやってください。

「江古田文化」とは西武池袋線、江古田駅の南口にあった映画館です。使っていた西武池袋線から見えるようにプログラムを書いた看板が掲げられていた。それを手掛かりに観にいったような気がします。そして、ここは4本立て。まあ、北口に日大芸術学部を控える土地柄、客層にそんな怖い人もいずに、映画に集中できた映画館でした。ここは、一般映画もやっていて、一ヶ月に一回くらいロマンポルノ4本立てがある感じでした。

「セックスハンター 性狩人」(池田敏春監督)

当時、池田敏春監督は、根岸吉太郎監督と並ぶ、新鋭という位置だった。そして、主演、太田あや子は、後に寺島まゆみ、北原理絵と共にスキャンティーズとして売り出されたりもした、ロマンポルノのアイドル枠にいた女優である。いわゆる、たらこ唇で長髪、結構、過激な演技も平気でしていたイメージだ。

あらすじを読むと、バレエダンサーが調教される話だったようだ。太田あや子が憧れる女性役に上記の写真の宮井えりな。この人は、スレンダーな身体の美女で好きだったが、この時期は、選手交代の時期と言える。エースではなかったが二番手の位置の女優さんだった。得手して、そういう女優の方がファンが多かったりもしたのがロマンポルノだ。この日観た映画の中では評価は高かったようだ。池田監督の当時の作品はそれなりに面白かった記憶はある。

「団鬼六・薔薇地獄」(西村昭五郎監督)

ロマンポルノのSM緊縛映画は一定の観客を集めて、常に作られ続けた。ピンク映画や今のAVのそれとは違い、縄にも色がついて、鮮やかな縄と白い肌の競演という姿は多くのファンを持っていたと言っていい。谷ナオミ引退後、この枠には次々と専門の女優が投入される。この時期、その役目は麻吹淳子さんだった。確かに豊満な肉体は縄が映える身体だったが、顔がおばさんぽかったので大学生の私には辛かった思いしかない。そして、SM物自体がイマイチ私には意味が分からず(いまだに、その嗜好がよく分からない)ほぼ、他の作品の付け足しで見ていた。

また、西村昭五郎という監督は、ロマンポルノ一作目「団地妻昼下がりの情事」からロマンポルノの申し子のように撮り続けた人だが、出来は中の上から下くらいの作品が多く、これは面白い!と唸るものは見せてもらえなかった。つまり、ロマンポルノは、監督と女優でほぼほぼ、内容や出来の想定がついた。そんな中で光り輝く逸品を見つけるゲームのような鑑賞だったのだ。

この作品もあらすじで、人気歌手の麻吹が調教されてしまう話らしい。それで、ほぼほぼ想定内であるので、それ以上は書く必要もなし

「百恵の唇 愛獣」(加藤彰監督)

もう、世の中からは山口百恵は引退し消えていた。そういう意味でも、ロマンポルノの百恵ちゃんこと、日向明子のローテーションでの仕事もこれが最後であったと思う。そして、この後、共演の泉じゅんを主役に「愛獣シリーズ」が始まっていく。ロマンポルノも寅さんのようなシリーズはないが、2.3本の同じ流れの作品が多々ある。この作品もそんなシリーズ化のきっかけの一本だ。

話は、歌謡賞レースの中で、蠢く金と女とスキャンダルの世界を描いたもの。「愛獣シリーズ」としては、最も印象に薄い。でも、泉じゅんの出ていることで多分当日は満足しているはずだ。泉じゅんは、デビュー作「感じるんです」が1976年。それ以来のロマンポルノ復帰作であった。ある意味、いい女になって帰ってきたということが重要だったのだ。

そして、監督は藤井克彦。ロマンポルノの監督の中では耽美派と言われ、彼が作る映画は映像美に拘っているのはよく理解できたが、作品の出来は西村監督と同じような位置にあった監督と認識している。

「後ろから前から」(小原宏裕監督)

この年のにっかつの正月映画の一本だった。畑中葉子主演のロマンポルノは4本あるのだが、始めこそ9月公開だったが、他はお盆と正月の客寄せパンダであった事は確かだ。アイドルがロマンポルノに出るという状況はもう時代の変化以上のインパクトがあった。そして、この映画の脚本は那須真知子さんである。後に「ビー・バップ・ハイスクール」などの脚本も手掛けた彼女も映画デビューはロマンポルノだ。私的には、女性が書いているということのインパクトはあったが、だからどうだったかというようなものはなかった。あくまでも撮るのは監督であり、映画の目的の一つは性的射幸心を煽るということにあったからだろう。

畑中映画は、内容的にはほぼほぼつまらない。この映画なども、共演してこれから売り出そうとしている風祭ゆきの方に眼が行き、畑中の幼い身体にそそられるものもなかった。監督は「桃尻娘」の小原監督なのだが、凡庸な一作だったという感じだった。

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こんな感じで、ロマンポルノ4本観るという修行は、女の裸がいっぱい見られてよかった以外の充実をなかなか与えてくれなかった。だが、テレビで見られないものが見られるという特権は大きく、映画って、いろいろなものがあるのですねという概念もここで知って行ったということだと思う。とはいえ、4本観ると、約5時間弱、当時のギシギシいう、お尻が痛くなる椅子に座って、よく見ていたものだと今は思うのです。無駄だったのかどうかは今もよく分からないが、ここでこの文章書いてるっていうことは、結構幸せだったのでしょうな。



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