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1981年10月31日「テアトル東京」最後の日(「あの頃文芸坐で」外伝)

40年前の文芸坐での思い出をずーっと綴ってきたが、そこに書ききれないと思ってこの話を書く。そう、1981年の秋、銀座一丁目にあった、東京で最も贅沢だった映画館「テアトル東京」が閉館した。これが映画館が一つの時代を終え出したきっかっけだったかもしれない。

テアトル東京は、東京で「シネラマ」という名称を最後まで掲げていた映画館である。とにかく大きなリボンスクリーンが魅力であった。今でいえば、IMAXみたいなものだが、それとは少し違っていたと思う。定員1150名とあるが、今の標準の映画館の椅子を装備したら、800名くらいの映画館であったと思う。そう、席は普通の当時の映画館の椅子だった。だが、ステージがなく、床から全面スクリーンというのは、実に豪華な感じがした。何より、東京で最もでかいスクリーンがそこにあった。そして、この劇場は、当時としては他にない全席指定席の興行をしていたのだ。そのくらい特別な劇場であった。

とはいえ、私がこの劇場で初めて見た映画は「七人の侍」だったりする。そのころは全席指定も少なくなり、普通の映画館とかかる作品もあまり変わらなくなったと思う。今考えれば、あれほどの大画面で「七人の侍」を見られたことは大きな経験だったと思う。そして、やはりこの映画館には「2001年宇宙の旅」や「スターウォーズ」といった迫力ある、時代を駆け抜けた大作映画が似合ったのだ。この小屋を閉めるということは、経済的、ビジネス的な面もあっただろうが、結果的には映画産業が一つの閉幕に向かっていた時期だということだと思う。

だが、もはや今は閉場した有楽町マリオンにあった「日劇」が映画館としてリニューアルオープンしたのは1984年である。まだ、新しい大きな小屋で勝負もできたのであろう。ただ、この映画館は映画街にあるわけではなく、ポツンと一棟だけ、ここに鎮座していた。そして、入り口からロビーに入るだけで一つの高級感がある劇場であった。その存在感は、今のシネコンに慣れてしまった人々にはわかるよしもない。そう、他にこの界隈では、日比谷スカラ座や丸の内ピカデリーの佇まいもとても好きだった。そこは、まさに映画を見るための空間だった。そう、映画館毎の映画の記憶であったのだ。

そして、最後の上映作品はマイケル・チミノ「天国の門」。まずは10月25日に、一人で観にいっている。219分の大作。1890年代の移民の話だが、その画面の豪華さは記憶にあるが、内容はあまりちゃんと入っていない。でも、この映画館が亡くなるということが非常に辛かった中で観たのは確かだ。

そして6日後、大学の映画好きも一緒に、最後のオールナイトを観にいく。昼間から、列に並んだ。この日は、全く指定などなかった。作品は「天国の門」と「ディア・ハンター」の二本立て。始まる前に、思い出を話すコーナーがあったと思う。司会者の「もったいないよねー」という言葉で始まったのは覚えている。多分、多くの映画ファンの気持ちはそれだけだった気はする。一つのエンタメの殿堂が亡くなるという記憶はとても切ないが、はっきりとあの日のことは覚えている。

そう、客は学生が多かったと思う。そして、皆が、入場したと同時に、テアトル東京の解体に入ってしまったのは驚いた。まずは、座席についた席のナンバープレートを取り出したのだ。私もそれに加わり、多分、家のどこかにそのプレートは眠っている。始まる前はそれくらいだったが、最後は、いろんなものが破壊されたらしい。そして、最悪はリボンスクリーンのリボンを切って持っていった輩もいるらしい。そのくらい自由だったといえば自由だったのだが、主催者もその場で何も注意しなかったから、やけくそ気味だったのだろうか?

そんな、殺伐とした風景も記憶に残るが「ディア・ハンター」は初めてテアトル東京で観て、感動した。そして、「天国の門」はそのフィナーレに相応しかったかどうかは別にして、ラストショーとしての記憶に残る。とにかく、そこから大劇場受難の時代が始まりつつあったと言っていいが、今考えても、それに代わる大劇場が作られて欲しかった気はする。青春に通った映画館の中で、輝く思い出の「テアトル東京」だったのだ。

できるなら、タイムスリップして、もう一度入ってみたい映画館である。


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