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高瀬昌弘監督の訃報に、我が映像好きの原点を思う

3月に入って高瀬昌弘監督の訃報を知る。なくなったのは、昨年の12月28日。88歳。知る人ぞ知る、その名前だが、世の中が大きく騒がないところを見るとテレビドラマ中心に演出された人は、今でも大きくは扱われないということであろう。

Wikipediaで調べると。彼の演出作品としてよく知られているのは

青春とはなんだ(1966年、日本テレビ)… 12本監督
これが青春だ(1966年‐1967年、日本テレビ)… 21本監督
でっかい青春(1967年‐1968年、日本テレビ)… 21本監督
進め!青春(1968年、日本テレビ)… 7本監督              飛び出せ!青春(1972年‐1973年、日本テレビ)… 21本監督        われら青春!(1974年、日本テレビ)… 12本監督             太陽にほえろ!(1973年 - 1986年、日本テレビ)… 53本監督

そして、時代劇の演出が多く、中村吉右衛門版 鬼平犯科帳を43本監督している。詳しくは下記のリンクを参照していただきたい


私が、今日書きたいのは、先に並べた一連の青春ドラマ群のことである。このシリーズに関しては、同世代で記憶にない人はいないだろう。大河ドラマの裏で長年にわたり、それなりの視聴率を獲っていた。第一作の「青春とはなんだ」は石原慎太郎原作。若い教師が高校生と対峙して、スポーツ、勉学、恋、放課後の楽しい時間に関してのドラマを綴る話。特に不良の生徒がスポーツで違う世界を知っていくという話である。この小説の原点にあるのは、夏目漱石の「坊ちゃん」であると私は考える(石原慎太郎が、そんなことあるかといってきそうだが)違うなら、ただのパクリである。

そう、ある意味、新人俳優と児童劇団上がりのような生徒たちとの、若いドラマが当時は新鮮だった。私は、親が大河ドラマを見ていたので、見ていたのは小学校が終わって帰った午後4時からやっていた再放送だ。当時は外で遊んでいた子が多かったが、私はテレビを見る人だった。そして、熱心にそれを見ているのを親に不思議そうに見られていた。そして、何度も再放送を繰り返し見ていたので、それぞれ何回見たかよく覚えていない。

でも、面白かったのだ。小学生が高校生というものに憧れていたのもあるが、小学生でも理解できる面白さがそこにはあった。そして、今見てもその演出力はかなり優れていたと思う。そして、初期のこのシリーズには、加東大介や宮口精二、藤田進といった東宝の精鋭が顔を出していたのだから、芝居も締まっていたのだ。

そして、ラグビーやサッカーの練習や試合のシーンも新鮮だった。もちろん、長く続いたシリーズなので、なんかしっくりしない時期もあったが、結果的には、私が映像というものを面白いと感じた最初がここにあるのは事実である。そして、高瀬監督は、テレビドラマの作り方を構築した原点の一人であるといっていい。

つまり、15分ごとにCMが入り、構図より台詞で見せていくテレビドラマは明らかに映画の演出とは違ったはず。当時は、映画会社のテレビ部というのはかなり低く見られた存在だったのだと思う。ただ、この当時の映像のリズム感というのは、多分、現在のテレビドラマの呼吸の基本を作ったと言っていいと思う。ビデオで撮ったホームドラマも多くなってきた時期だが、いわゆる機動性もある16mmのフィルムドラマはこの辺りでテレビ独自の世界を築き、今に至ると言ったところだろう。

すなわち、庶民の娯楽として、映画がテレビに抜かれ、テレビが様々な試行錯誤をする中で、テレビも、若者向けのもので新しい世界を築いて行ったという中で、監督として多くに携わった人が高瀬監督なのである。

いまでもよくかかる作品としては「太陽にほえろ!」のジーパン刑事登場の回がある。そう、松田優作を最初に演出したのは高瀬監督だったのだ。そういう意味で興味を持っていただければまた良いかもしれない。

高瀬昌弘という監督は、映画では黒澤明の助監督にもついている人だ。それが、テレビという新しいメディアの世界に移り、新しい映像世界を作って行ったことは確かであり、いわゆる映画とテレビの橋渡し的な時期に大きく貢献した人だということである。

この辺りの青春シリーズはまだ、デジタルリマスターされたものがないと思うのだが、是非、後世のためにそうやって残して行っていただきたいと考えております。テレビドラマ史の中でもすこぶる重要な作品だと思うので。それが私の映像を好きになった原点でもあるということもありますし…。

最後に高瀬昌弘監督のご冥福をお祈りします。多くの作品を観せていただき、ありがとうございます。



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