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世界のひとの顔と顔が見えないイベントをオリンピックとは呼ばない(開会式を見て思ったこと)

東京五輪音頭一節に「オリンピックの顔と顔 ソレトトントトトント顔と顔」というのがある。世界中の人が集まって、スポーツを競うと同時に平和を祈る祭りには、笑顔がいっぱいあるというような感じを見事に表した詞である。ドラマ「いだてん」の中でも、この一節は、印象的に取り上げられていた。オリンピックは世界が仲良くなるための祭りだ。ビジネスではない。

ならば、こんなコロナ禍が終わらない今、無理に開催するものではないことは明らかなことである。そして、無観客。スポーツをやるものも、そうでないものも集まって笑顔で繋がることができない。そんなにしてまで開催するものではないとわたしは思う。選手もみなマスク姿で顔が見えない。そう、「オリンピックの顔と顔」などどこにもないのだ。これは、オリンピックではない!

日本は、このイベントの招致を成功させ7年をついやし、昨日の開会式に挑んだ。それは、日本の現在のあるべき姿を表現する場でなくてはならなかった。私は強固なナショナリズムを良くは思っていないが、「日本という国がこういう国だ」ということは発信すべきだとは思う。そして、7年かけて考えたイベントは統一感なく、現在の日本の本質を捉えているとは思えなかった。逆に見れば、日本の見えない(見せないようにしている)混乱そのもののように思えた。

もちろん、7年間に起きた不祥事が、このイベントの内容も二転三転させたのであろう。それは前回の1964年のオリンピックも同じだったことは「いだてん」を見ればわかる。だが今回は、見ていて、愛情をそこに感じることが少なかったというのが結論だ。

オープニングでの、踊りや、途中の黙祷、職人のパフォーマンスや踊り。それぞれに優れているものを持ってきているのはわかるが、意外性やオリジナリティはあまり感じなかった。企画段階でもっと多くのものが考えられたのだろうが、ここに落ち着いた意味がしっくりこない感じだった。ファーストインパクトの弱さ…。

そして、国歌斉唱。ここで日本の旗を運んだのがアスリートだけでなく、看護師なども入れていたのは良いのだが、もっと、その世界の今の現状などを映像なども交えてしっかり伝えてほしかった。全体にこういうものが散りばめられているのにメッセージが弱いのは演出の下手さに尽きる。

その後、長い長い入場行進。入場曲は全てゲームの曲。私はそれを嗜む人ではないのでほぼわからない。確かにゲーム文化は世界に誇るものかもしれないが、全部をこれで済ますとは呆れるばかり。オリジナルな印象的な曲も欲しかったし、もっと和的なもの、各国に合わせた曲など使う気はなかったのか?

プラカードの漫画の吹き出しや、周囲のマンガチックな服を着る応援ボランティアの姿も、「これが日本の代表?」と思うと、納得はいかない。漫画をフューチャーするなら、入場曲にもアニメ曲などを組み込むべきだっただろう。曲も入れて全てが「緩い」。これで日本人がどうみられるか?ということは考えたのか?作り手の強い意志は私には伝わらなかった。

入場順がアイウエオ順というのは、いいのだが、いつになってもアメリカが入ってこない。と思ったら、今までになかった、次回と次々回の開催国を日本の前に並べるというアクロバティックな施行。あくまでも、アメリカでの視聴率を下げたくないから、アメリカをア行で出したくなかったと言うことらしい。馬鹿馬鹿しい。

終わって、今回一番、視聴者の目を奪ったのは、ドローンによる地球の造形だろう。多くのドローンをこのように制御可能なのか!と驚くばかり。これが日本の技術ならすごいのだが、そうでもないらしい。もはや日本は技術立国ではない。そして、これを見て私は驚きよりも恐怖を感じた。この技術が戦争で使われたらどうなるかと言うこと。個々の人間をドローンが追いかけていく様を想像するからだ。昨日の朝のブルーインパルスの登場にも「感動した」という言葉がネットに踊っていたが、これもまた戦闘機がやっていることだ。もし、パイロットが狂っていたら、見物人が攻撃されることもあるかもしれないのだ。そういう恐怖感を覚えるものをいまだに使う意味とは何か?わたしには理解できなかった。平和の祭典に、そういうことを想像させるものを使ってはいけないと思うのだ。

そして、その後に海老蔵と上原ひろみの共演。そして、ピクトグラムの紹介コント。そして、劇団ひとりのお笑いコーナー。楽しませようとするのはわかるが、センスはあまり感じない。

「イマジン」が流れ「翼をください」が流れるのも、もはや凡庸な平和の誓いの図でしかない。そこに新しいものが見えてこない。日本的なものも、後半では海老蔵以外何も出てこなかった。

そして、今日のネットのネタにされている、橋本聖子とバッハ会長の長い挨拶。結局、この大会はIOCのマスターベーションなのかもしれないとさえ思ってしまった。まあ、森喜朗がここに出てこなかっただけでも良しとするべきか?

そして、天皇の開会宣言は、なかなか威厳がある形で語られ、やっと開会式らしいものを見た気になる。だが、この宣言をする途中で、隣にいた首相と都知事が立つという、見苦しいものがテレビに映ってしまった。多分、これは段取りがされていなかったのだろう。特に天皇が宣言するから立つこともないのだ。この首相や都知事に意思がないことで、促されたら立つということをしたために、格好悪いものが世界中に流されたと言うことだ。大体、天王と首相をあのように近くに座らせたのがミスなのだろう。

そして、聖火が入ってくる。最近は、会場内で何人にも引き継ぐ形が取られる。それはいいだろう。だが、長嶋&王&松井にオリンピックのイメージはない。やはり、オリンピックらしいアスリートがここに立つべきだ。長嶋さんの歩けない姿を見ても元気は出ないし、世界中の人が「誰?」という感じではなかったか?

最終ランナーが大阪なおみになったことは、今の混沌とした時代の象徴として、いや世の中の考え方が変わる象徴として良かったという見方はある。だが、それがこの開会式の一貫したメッセージではなかった。あくまでも、この開会式は、オリンピック委員会とスポンサー各社の面子を守るための開会式だったのだろう。

聖火台のギミックはなかなか興味深かったが、何か、灯った聖火は寂しげに見えた。その後に花火で盛り上げたおかげで、聖火の炎の輝きは目立たなかった。これも演出のミスに見えてしまったりもした。

とにかく、コロナ感染が続く中、競技も始まってしまったようである。わたしは、今回に関しては、熱い気持ちでそれを見ることはできないと思う。日本が金メダルを取ってもそれが感動にはつながらない気がする。何故かといえば、国民はこのオリンピックに振り回されただけであったからだ。正直、こんなに多くの外国の方が入国していることで新しい感染状況が起こる方が怖いのだ。

今日からもわたしは「オリンピック中止」を訴え続ける。確かにアスリートには罪はない。だが、アスリートの生活云々よりも、こんな環境でオリンピックをすることに意味を感じないのだ。多くの顔の出会いが見えないオリンピックは、オリンピックではない。

今日にでも、オリンピックを中止していただきたいと思う7月24日、満月の日であります。

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