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君たちはどう生きるか

退職してから映画館でよく映画を見る生活が復活しつつある。
先日は『君たちはどう生きるか』の深夜上映を見てきた。
割引のある日ということもあって、お客さんの入りはまあまあ。

賛否両論のある映画という前情報だったので多少気張って見に行ったが、楽しみ方や捉え方は違っても、誰でも楽しめる広くおすすめできる作品だと感じた。

ちなみに私はあまり宮崎駿作品やジブリ作品を今まで真剣に見てきておらず、その観点での文脈はよくわからず、この一作のみを見て感じたこと、考えたことをまとめたものになります。
以降、ネタバレがあるのでご注意を。

大叔父の愚かさとあの場所の必要性

この映画の設定の特殊性は、異世界を複数人で共有していることだと思う。主人公の少年以外は戻ったら忘れてしまったらしいが。

その世界を統治しているのは大叔父で、ユートピアというよりかは殺生があり、デカいインコやペリカンに襲われる危険もあり、案外生き続けるにはリスクは大きく、不便も多い土地だと思う。
でも、そこには役割があって、生活があって、生き方を教えてくれるメンターがいて、そして原理はわからないが石などからパワーをもらって、ケアがなされる。

どうやら大叔父は昔に多大な犠牲を払ってその場所を守ろうとしたらしく、以来現実世界からは消えて、バランスを崩しつつあるあの場所を守ってきた。
具体的な描写は少ないが、少年の母も、その妹も、少年も、そしてきっと大叔父も、何かしらあの場所で自分を回復できたように見える。
少年の母(少女)が、届いてはいないかもしれないが大叔父に感謝を伝えた場面では涙してしまった。
元の世界に残された人々にとってはたまったものではないが、でも幾らかの人には確かに必要な場所だったのだと思う。
そこにそのまま取り込まれてしまう怖さもあるけれど、その異世界では自分の弱さと強さに気が付き、自分を知って、前に進める。

元の世界にはなくて、あの世界にあるものはなんだろうか。
もしくはあの世界に何かがないことで、彼らは回復することができたのだろうか…

語られない皆の傷つきと希望

あの場所に訪れたもの、少年と、少年の母と、少年の母の妹と、そして大叔父。
彼らはそれぞれの理由で必然的にあの場所に訪れた。
少年が、第二の母があの場所へ向かうのを見て感じたように、きっと行きたくて行ったんじゃない。
アオサギは少年を惑わせて不思議の国に連れてきたように見えなくもないが、彼はどちらかといえば少年側で、少年の求めるように(時に友達として)行動していたのではないだろうか。

少年以外については、なぜあの場所に訪れたかは深く語られない。
だけどそこには戦争があって、傷つきがある。

特に姉が死んでその夫との間に子をもうけた妹は、きっとまだ少し時間が必要だったようにも見えた。
彼女はこの先大丈夫だろうかと少し心配だ。

あの場所はもうなくなってしまった。
誰にも必要とされなくなったからではなく、次の担い手がいないから滅んでしまった。
時代にそぐわないから滅んでしまったのかもしれないが。
そうなったときに、あの場所に求めたものの代替品を私たちは探さなくてはいけない。
少年には記憶がある。
あの異世界が支えたものが現実で受け継がれる希望があるのだろうか。

戦争と暴力と日常

政治性を持つドロドロした暴力は描かれていなかったように思う。
少年は母を失って戦争や敵国に対して怒る、という描写は無い。

キリコさんが魚を殺生するのも、ペリカンがワタワタを喰らうのも、生きていくため。
でかいインコが人間を喰らうのも生きていくため。
ペリカンがワタワタを喰らうのも生きていくため。
ヒミに燃やされたペリカンは、自分の死を受け入れている。

少年はあの世界がなくなった後もペリカンが生きて外に出られたことを喜ぶ。
人間対トリではなく、もっと純粋に生き物が生き続けることを喜ぶ。

暴力は生きる上での必然であって、悲しみを生むことはあるが必ずしも憎むべきものではない。
少年は自傷行為の意味を悪意と名付けたが、ここは私の中ではまだ腑に落ちてないので、もう一度見たい。

最後に

いろいろ描いてみたが、考えだすと面白いディテールが他にもたくさんあったように思う。
ワラワラは、異世界にいた死人は何を意味するのか、なぜ鳥がたくさん出てくるのか、母はなぜあの時代に異世界を訪れたのか、などなど。
観賞後に語りたくなるタイプの映画が、多くの人に見られることを期待したい。

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